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テーマ:ゴードン・ハスケル(164)
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
1968年にゴードン・ハスケル作詞作曲のシングル曲「Lazy Life」をクエンティンEクロップイエガー名義で唄い、南アフリカでヒットさせたビリー・フォレスト氏。今まで何度か当ブログでも彼とハスケルの関係を取り上げてきました。 当時ヒットしたという曲、ハロー・オペレーターのオリジナルヴァージョンはYoutubeに無い為、ビリーが後年セルフカバーしたテイクで。 市場規模が小さいとはいえチャートに17曲を送り込んでいたそうですから、南アでは当時ちょっとしたスターだったのでしょう。テレビ番組などでも活躍してたようです。時代が時代ですのでまだ78回転のSP盤が主流。それもあり枚数自体は今と比較するべき物では無いのでしょうけど。1962年からはソロ名義の活動になり、様々なバンドや歌手との共演の中に若き日のシャロン・タンディも混じっていたわけです。 ビリーが英国でヒットを飛ばしていたマンフレッド・マンにどの程度刺激を受けたのかは判りませんが、南アでのビリーの活動はビートルズなど英国のヒット曲を数多くカバーしていたそうで、そこからいずれ英国に進出したいという気持ちも芽生えていったのかもしれません。 1967年に英国でレコーディングするに当たって、Fleur De Lysがバックメンとしてセッション参加した際、レコーディングに用意した楽曲が1曲しかないという偶然の手違いからその場でシングルのもう一曲はどうするかと話し合われ、たまたまオリジナル曲を作っていたハスケルが「僕が書いたばかりの曲があるんだけど・・・」と自作曲レイジー・ライフを披露。その曲が即採用となり、英国/ドイツでは歌手William E.名義で発売されました。 上記はシングルB面曲 翌1968年ビリーは南アフリカで変名のQuentin E. Klopjaegerとして自身のバンド「ゴンクス」とレイジー・ライフをセルフカバーで再レコーディング。前年のFDLとのセッションではギターがアコギだったのをエレキに入れかえ、少しテンポも速めたテイクになりました。 これが南アで大ヒットとなり、州によっては首位を獲得する所もあったようです。 (画像は1968年6月8日ビルボード南アチャートから。同日日本での首位はザ・タイガース/花の首飾り。) 現在は南アフリカもののコンピCDに収録されており、アマゾンでDL販売もされています。同曲は翌1969年、クエンティン名義LPにも収録されました。 非常に珍しいLPなのであまり市場に出てきませんが、数年前やっと南アフリカからの出品を入手できました。シングル曲以外はオーケストラをバックにドリーミーに唄うナンバーが多く、FDL関連のジョン・ブロムリー楽曲やティム・アンドリューズ楽曲等もカバーされています。 レイジーライフは1970年にも南アのジ・アウトレットというバンドにもカバーされてました。 またオーストラリアではジャズロックバンド、Heart 'n' Soulにもオーケストラアレンジでカバーされスマッシュヒットしています。 これらのどのテイクを聴いての事かはわかりませんが、1972年暮にハスケルがコテージにいた所、英国のロカビリーアイドル歌手ビリー・ヒューリーの訪問を受け、ヒューリーが『君の書いた曲知ってるよ』とその場でレイジー・ライフを歌ったという話があります(ハスケル自伝)。ヒューリーは80年代に入るとじきに心臓の持病で亡くなりましたが、最晩年にこの歌をカバー録音しており、いくつかのコンピ盤に収録されています。 また1970年には、ビリーのプロデュースで南アフリカの女性シンガー、ワンダ・アレッティのシングル「ザンジバル」が発売され、コレも南アでヒットチャート入りしました。ゴードン・ハスケルが1969年秋に出したLPに収録されていたハスケル楽曲で、ワンダのレコーディングにはハスケルも参加し、ザビ部分のバックコーラスを行っています。 ここらへんもビリー・フォレストがゴードン・ハスケルのソングライティング能力を買っていたといえるところなのでしょう。 1970年代に入るとビリーの活動はプロデューサー業が増えていき、様々なアーチストのレコードを手掛けています。また、南アに帰国したシャロン・タンディとも共演シングルを何枚か残してるようです。70年代終わりにはビリー・キンバー名義としてRCAでプロデューサーをしてた関係から、ハスケルがRCAと二年のライター専属契約を結ぶのと共にサードアルバムの制作に取り掛かる事が可能になったと言えるわけです。もちろんハスケルのサードは、ビリー・キンバーのプロデュース。 ※残念ながらパンクの台頭でハスケルのサードアルバムServe At Room Temperatureは白ラベルのテストプレスのみで1980年には発売に至らず、だいぶ後の90年代になりやっと日の目を見たのでした。(レコードとしての正規発売は、70年代末から80年代にかけて一部楽曲がシングルとして発売されたのみ。) ツイッターでココモJPさんに以前うかがった話ですと、ハスケルのサードが日本発売される際、ハスケルと日本の発売元がやり取りしてる最中、取り上げた雑誌編集部が中心となって来日させようかという動きもあったのだそうですが、実現には至らなかったそうです。 長年裏方を続けてたビリー・フォレスト氏も近年は歌手活動をマイペースで行っているようです。その殆どはカントリー調の歌ばかりなので、21世紀の現在はハスケル氏と音楽的な関係は特に無いと見ていいのでしょう。 最後までお読み頂きありがとうございました。 余談: この4月に70歳になられるゴードン・ハスケル氏。そのひと月後にはロバート・フリップ師も70歳を迎えられます。はたして1977年以来のハスケル氏来日は果たされるのでしょうか? お歳もお歳なので招聘するとしたらもう最後のチャンスといえるでしょう。彼が制作している新譜の状況、今まで何度も質問してきているので、あまり聞き返すと失礼になると思い、最近は尋ねてませんが、いずれ出るでしょうw 時期はサッパリ読めませんが。来日のチャンスはそこらへんだと思うのですが、どこぞのプロモーター様。よろしければ彼を日本に来日させてはいただけないでしょうか?どうぞよろしくお願いします♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 17, 2016 12:30:59 PM
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