カテゴリ:信仰・教会
「嫌韓流」というマンガを目にした。
「日本人よ。韓流、韓流とさわぐなかれ。 韓国ってじつはこんなにひどい国だ」という 立場で、日本の韓流を批判している。 中国や韓国の反日と同じレベルで、これでもかこれでもかと 韓国や韓国人の問題があげつられている。 初めは「またか」と思っただけだった。 しかし時間がたつにつれ、「この本の何が問題か?」 を考えるようになった。 そして気づいた。 反日問題も、嫌韓流問題も、中東問題もテロも すべての根は一つだ。 それは、攻撃のための攻撃、批判のための批判でしかない。 動機そのものが問題なのだ。 平和を作り出すことが目的なのではなく、 相手を叩き潰すことが目的なのだ。 その結果として生み出された、たまたま紛争が なくなった状態を、平和と誤解しているにすぎない。 戦後60年の節目の年と言われる。 しかし日本の8月はどうも、被害者としての戦争終結が 強調されているように思う。 いや、日本だけでなく、どこの国でも、「われらこそ被害者」 という立場をとるのだろう。それは戦勝国と言われる国に おいても全く変わらない。 「わたしこそ被害者」この視点に立つ限り、平和は決してやってこない。 「わたしもまた加害者」という視点を忘れてはならない。 それは決していわゆる自虐ではない。歴史は100%客観的に見ることは できない。言おうと思えば被害者も加害者になるし、加害者も被害者になる。だから、みんなが「わたしは悪くない、悪いのはあいつだ」と言うことができるのだ。そしてそこに新しい争いが起こってくる。 だから「どっちが悪いのか」という議論は解決策にはならない。 一つの言葉を考えてみたい。 「どうしたら和解できるのか」 「わたし被害者、あんたが加害者」紛争の当事者たちがいつまでも その立場を崩さないならば、平和は決してくることはない。 「どうしたら和解できるのか」 その立場に立って、自分を、相手を見るならば、おのずと 自分のなすべきことがわかってくるはずだ。 何をしたか、何を言ったかではなく。 「どうしたら和解できるのか」 その立場に立った批判なら、きっと受けとめられる。 反日、嫌韓流、すべてのムーブメントの根底が、 「どうしたら和解できるのか」 という立場に変わらねばならない。 「平和を実現する人々は幸いである その人たちは神の子と呼ばれる」と主イエス様は言われた。 だが、神の子主イエス様は、平和を実現するために自らを 犠牲にされた。 平和の実現は、決して簡単ではない。 けれど、実は簡単だ。 「どうしたら和解できるか」 スタート地点を変えよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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