山頭火、晩秋を憂う。
家を持たない秋がふかうなるばかり 山頭火霜月晦日。テレビを見ていると京都の錦秋を映したり、北海道の冬景色を映したりと、この時季は秋と冬が同居していて、眺めている分には誠に興深いことです。(停電にて難儀を強いられている方々のご苦労は推察申し上げます。)行乞途上の山頭火は、晩秋と初冬の風情には句心を刺激されて多くの句を残していますが、それでもその時季はまた憂いでもありました。精神の束縛から解放されるためには、物質の保護を放棄しなければならないわけで、それがこの時季はせつなくもつらくなるのです。住む家はむろん、ときに一夜の木賃代すら事欠く行乞旅は、風景同様に眺めている分には興深いのですが、極端な言い方をすれば生命の危険を覚えるほどの大難儀の側面を有しておりました。「行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。」句集のあとがきでそう綴る山頭火です。達観というか潔いというか・・・つまり「わびしさ」と書いてさほどにわびしさを感じないあたりに、世の山頭火好きはしびれるほどに感じ入るわけすね(^^)一銭も無くとも、貧乏臭や生活苦が出てこないことがなによりだと思います♪そして付け加えれば、山頭火の最大の魅力は、どんな時でも句をつくり続けた、ということでしょうか。だから山頭火の俳句は飽きません(笑)それをして山頭火自ら曰く『春夏秋冬あしたもよろしゆうべもよろし』とね♪蛇足ながら、興味をもたれた方は合わせて山頭火日記を持ったなら、きっと外を読む暇はないはずです(笑)とはいえ!明日から師も走るという暮れ。不肖私も走らねばならず(汗)、しばし山頭火は書架の飾りになりましょう。師走を前に、山頭火を想い、しみじみ「せめて今宵は上宿に恵まれますことを」と祈ってみました(^人^)