読書案内No.55 伊藤比呂美/とげ抜き新巣鴨地蔵縁起 両親の介護と娘の拒食症と我が身の不甲斐なさ
【伊藤比呂美/とげ抜き新巣鴨地蔵縁起】◆両親の介護と娘の拒食症と我が身の不甲斐なさ世の中には私小説というものを認めたがらない人がいる。だがそれは好みの問題にもなるので、仕方がない。不思議なことに、私小説は認めなくてもエッセイなら好きだと言う人がいる。同じように自分のことを語るにしても、エッセイの方が軽いからだろうか?ちなみに私は私小説が好きだ。実体験から生じる苦悩とか、あけすけな本音など、ぜひとも垣間見たい分野でもあるし、半分は興味本位もある。伊藤比呂美の肩書きはあくまでも詩人だが、エッセイや小説も書いている。『とげ抜き』はエッセイとも受取れるが、私小説としても充分読み応えがある。いずれにしても、著者の赤裸々な生き様に圧倒される。文章にリズムを感じる小説というのは少ない。漢詩のような男性的で力強い文体にはリズムがあるけれど、伊藤比呂美の文章には、詩人の発するリズミカルな旋律が聴こえて来るような錯覚すらある。『とげ抜き』で大きな主題となっているのは、一人娘である著者が、カリフォルニアの自宅と実家のある熊本を年間に何度となく往復し、精も根も尽き果てながら両親の介護に向き合う点だ。というのも、母親が脳梗塞やら機能障害で入院し、父親も以前胃ガンを除去してから足腰がめっきり弱くなり、耳も遠く、とうてい母の面倒を押し付けることができない状態となっていたのだ。もともと熊本は伊藤比呂美の前夫の赴任地であり、その縁に引かれて著者の両親は引っ越して来たのであり、身寄りはいなかった。その後、著者は当時の夫と離婚し、今はイギリス人と再婚し、アメリカに渡っているため、両親は熊本で老いてゆくほかない。頼れる家族は一人娘である著者だけなのに、熊本にはいない状況なのだった。1~2ヶ月にいっぺん熊本に帰って来る娘を待ち焦がれる父親は、電話口で「つらい。さびしい。くるしい。くらい」を繰り返す。そして入院中の母親は、手足が動かず、寝返りもうてず、排泄もできず、食事も摂れず、家には帰れず、もうどうしようもない状況である。だがそうは言っても著者にも家族があり、生活がある。さらに追い討ちをかけるのが、著者の前夫との間にできた娘が、アメリカの大学に通っているのだが、深刻な拒食症に陥ってしまうのだ。「冷蔵庫から出したてのゴボウの束のようなものでありました。ものを食べず、しゃべるときも口をひらかず、終始うつむいてにこりともしませんでした」著者は意を決して娘をつれて帰ろうとする、だが当の娘は「おかーさんのところには帰りたい、でも帰れない」と言う。それもそのはず、母親には再婚相手のイギリス人亭主と、その二人から生まれた可愛いハーフの娘がいる。部外者の自分が入る余地などないのだと思っているのだ。ああ、せつない。読んでいる側としては、胸がズキズキと痛くなるような場面だ。著者は次から次へと噴出する艱難辛苦を、ジタバタとムダにもがきながら受け入れていく。解決策などとうの昔に放棄しているようだ。なるようになるさと、あきらめの境地さえ窺える。そして、ところどころで自分の若かりし頃を振り返り、その業の深さを真っ向から受けとめている。「自立とは、若者が親から離れてセックスをするためのただの方便だったのではあるまいか。そのとーり、親離れして、わたしはさんざんセックスいたしました。子も産みました、そして今、いつのまにかわたしは自立し、家事をし、育児し、金も稼ぎ、父が為しえなかった縦の物を横にすることもちゃんとしてます」言葉に虚飾はなく、むしろ生々しい。これ以上の真実はないのではと思うほど核心を突いている。そして、そんな波乱の中に生きる著者がたどり着いたのが、信じることの宗教心(?)だ。とげ抜き地蔵の「みがわり」を信じて、認識するのだ。「自分は、この巨大な存在とひとつになり、ちらばった、みぢんの存在である」苦悩を抱えて日々を生きる女性の方々、どうか手に取ってこの本を読んでいただきたい。自己の解放感に浸れるかもしれない。『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』伊藤比呂美・著 〔紫式部文学賞、萩原朔太郎賞ダブル受賞作〕☆次回(読書案内No.56)は芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』を予定しています。コチラ