変哲、小沢昭一と話す。
風あればななめななめに秋の蝶 変哲変哲とは亡くなられた小沢昭一さんの俳号である。小沢氏が去年の暮れに亡くなられ、おおいに落胆してからまだ一年になってはいないのだが、近年は事故や災害に枚挙の暇がないためか、もう遠い昔のような気がする。時折変哲の俳句を眺めると、句を読み上げる小沢昭一さんの声が聞こえてくる。そう、あのラジオ越しの声である。どうやら音(声)の記憶は薄れないようだ。人と話して「小沢昭一」の名前が思い出せなくて「ほら、あの人!」ともどかしい思いをする時でも、小沢さんの声は我が嚢中に響いているのだ。小沢さんの声を聞くと、改めて偉大な人を失ったことを実感する。はたして小沢さんほど芸を語れる(わかる)人はいるだろうか。『昨今はぁ~、芸がない(NO!)からゲーノー人』小沢さんは笑いながらそう揶揄したが、現状をするどく突くひと言だ。品位と粋を堅持しつつ、知識と教養に裏打ちされた諧謔精神をもって昨今の風潮を説ける(するどく突く)人を小沢さんの他に私は知らない。あの日は台風の影響で強風が吹き荒れていた。窓越しに見える交通安全の立旗は風に吹かれて引きちぎれんばかりである。コスモスは波にうねる藻のように、ただ風に身を委ねているばかりであった。野暮用を明日にまわそうかどうか迷ったが、私は自転車で出かけた。進まない。こいでもこいでも進まない。なんとも押し戻されるようだ。とっておきの呪文も強風を前に効果はなく、もはや我が鬼の形相を想像するに難くはない。いやはやと思ったその時だ。どういう思考が働いたのか小沢さんの俳句が口をついて出てきたのだ。『風あれば ななめななめに 秋の蝶』口に出してゆっくり読むと、私の頭の中でそれは小沢さんの声に変わった。あのラジオ越しの声だ。小沢さんは何度か読み上げてくれ、そしてこう言った。『風にさからおうったって、あぁた、そりゃぁ無理な話ってもんだ!』なるほど、さからってはいけないのか。『蝶はななめななめに飛んでいくんだ、立派なもんでしょぉ』そうか、そういうことか。まずは気張らずにゆっくり行こう。そう思い、私はめったに使うことのない前のギアを入れた。カラこぎのような感覚とともに速度が極端に落ちる。するとどうだろう、風の圧力は半減するではないか。これなら耐えられる、私はこのギアを保ちつつゆっくりゆっくり進んだ。つまり『ななめななめ』を考えてみろ、そういうことですよね、小沢さん?『せぇえかぁ~い! それがわかりゃあぁたも芸人になれるよ。』いまさらそんな気もありませんが、小沢さんのお褒めの言葉としてありがたく頂戴しておきます。それにしても小沢さん、本当のところこんな凄い風では蝶は出てきませんぜ。『またまたせぇえかぁ~い! あぁたね、俳句なんてもんは想像力の賜物ですよ。生きているうちに頭をつかわないとね。あたしはもう使おうったって使えないッ!』なるほどね~。それにソチラじゃなにもないだろうから写実はかないませんな。「黄泉の 俳句はすべて 夢の中」こんなのどうでしょ、小沢さん。向かい風にほうほうのていになりながらも、小沢さんとの会話と楽しみつつ、私はどうやら目的地に到着した。帰路は追い風、人生ぃ苦がありゃ楽あるさぁ~♪ってね(^^)v