読書案内No.101 萩原葉子/蕁麻の家 萩原朔太郎を父に持つ子の波乱の人生
【萩原葉子/蕁麻の家】◆萩原朔太郎を父に持つ子の波乱の人生ゴシップ好きの私はこれまでにあまたの私小説を愛読して来た。誰もがそうだと思うが、リアリティーを感じた時、その小説に深い共鳴を覚えるからだ。 主人公と共に泣き、共に考え、共に笑う。それほどどっぷりと浸かった読書が、果たしてまっとうなものなのかは自分だと判断できないが、少なくともそこから得られたカタルシスは上質なものであると信じている。『蕁麻の家』についての感想を言う前に、この私小説の背景をざっと紹介しておきたい。 主人公の「私」は、著名な詩人である萩原朔太郎の長女である。物語は、その父を洋之介という名前で話をすすめる。母は、子どもたちを置き去りにし、若い男と駆け落ちしてしまった。「私」には、知的障害者の妹が一人と、虐待をくり返す祖母・勝がいた。この背景を知っただけで、私などはすでに救いようのない憂鬱さを感じてしまった。一般的に孫の存在というものは、息子・娘より可愛く、手放しで甘やかしてしまうというのはよく聞く。ところが「私」の祖母は、孫に対する虐待は日常茶飯事で、それを知っているはずの父・洋之介も知らんぷりなのだ。もちろん娘をかばうことなど一切しない。とにかく「私」に対して無関心なのだ。もしかしたら執筆に余念がなく、我が子を顧みる間もなかったのかもしれない。それにしても、、、それにしても父親としての意味、存在意義があまりにも希薄ではないか。そんな背景をふまえつつ、あらすじも紹介しよう。「私」はいつも孤独を感じ、話相手のいない寂しさを抱えていた。家では祖母に虐待され、知的障害を持った妹とは意思の疎通がかみ合わず、度々やって来る麗子(叔母)から悪口や厭味を言われ、日々は暗澹として暮れてゆく。そんな時、氏素性の知れない年の離れた岡という男に声をかけられ、初めて人間らしい会話を交わしてもらえたことで、「私」は体を許してしまう。その後、「私」は岡の子を妊娠。ところが「私」の一族は岡との結婚はもちろん、出産には猛反対。(この時、父・洋之介の反応はない。無関心である。)岡は、どこで知り得たのか「私」の父が著名人であることをかぎつけ、脅迫して来る。(岡は博打で、年中、金に不自由していたらしい)「私」は祖母たちから堕胎を迫られるものの、産婆によるとすでにその時期を過ぎているため、堕ろせないとのこと。「私」は覚悟して出産に望むのだが、結局、死産であった。いろんな私小説があるけれど、これほどまでに凄惨な展開の自伝があっただろうか?とにかく救いようのない少女時代である。どんなにうがった見方をしても、脚色したものとは思えず、全て著者の冷静で客観的な視点から語られたものとしか捉えようがない。苦悩、苦悩そしてまた苦悩。この小説に感じるのは暗く、憂鬱な青春期と、家族に対する不信感である。それなのに最後の数ページで「私」は初めて父の存在により救われる。始終、凄絶な苦闘のくり返しなのかと思いきや、最後の最後に来て一条の光が射し込むのを見る。考えてみれば、父・洋之介も不幸な人である。詩人としては成功したけれども、私生活では、、、まず、妻が若い男と駆け落ち同然で逃げてしまう。さらには、長男でありながら母親に頭が上がらず、やりたいほうだい勝手ほうだいをさせていた。(一家の実権は、完全に洋之介の母が握っていた)二人いる娘のうち下の娘は知的障害者で、当時としてはどうにも手の施しようがなく、成り行きを見守るしかない。そうかと思えば今度は上の娘がどこの馬の骨とも知れないゴロツキの子を宿し、しまいにはその男から金の無心までされてしまう。これまで無関心を装って来たさすがの洋之介もこれにはホトホト参ってしまい、体調を崩し、死の淵を彷徨う。「見よ! 人生は過失なり」(萩原朔太郎『新年』より)さすがは詩人。己の絶望でさえ詩に託すのだから。それはともかく、萩原葉子の硬質でメリハリの利いた文章に、やはり父親のDNAを感じないではいられない。涙なしには読了できないほどに、過酷な人生の記録である。『蕁麻の家』萩原葉子・著☆次回(読書案内No.102)は俵万智の「トリアングル」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから