コラム紹介『西日本新聞 春秋』東京へ行くということ
【西日本新聞 春秋】※画像昨年の、2月19日に掲載されたコラムである。先日の「コラム紹介」(こちら)で『東京に行くこと』について綴った。その続編である。コラムを読み、共感して膝を打つことはあれど、いまだかつて落涙を禁じ得なかったコラムはこれだけである。『巨大な弁当箱にこめらえた計り知れない大きな愛』昨年の2月19日、コラムを読み私は長谷川法世氏の悔恨の念を我が事のように感じ、日ごろ亡母に抱いていた屈託が堰を切って溢れ出したのだ。なんのことはない、弱冠のころから青年時代を、長谷川法世氏と似たような親不孝をしてきたということだ。一年弱、自戒の念をこめコラム画像を折に触れて眺めてきた。いまだ垢重の身なれば悔恨の思いも時に薄れる。画像を見ては省みるというわけだ。恥ずかしながら、私にとっての『東京へ行くこと』はそういう顛末である。上京への思いは即ち自責の念となったのだ。先の岐阜新聞 分水嶺では、『ずっと親や同級生の中で暮らして自己は確立できるか。一度は「ほどほど」ではない外の世界を目指してほしい。』と若者の背を押した。『東京へ行くこと』は人それぞれの経験だ。だからその意味も人それぞれによって違うはずである。だが、自己の確立につながることだけは間違いない。月並みであるが、離れてみてはじめて理解できることは実に多いのである。我が身のように、それが悔恨の念を抱く結果になろうとも、それはおおいなる自己の確立であると私は思う。長谷川法世氏もきっと、同様の思いであるに違いない。活路は必ずある。だから若者よ、上京せよ!一人でも多くの若者が、何かしらの思いを抱き東京の地を踏まれることを、私は願ってやまない。老婆心ながら。