読書案内No.162 村上春樹/時代と歴史と物語を語る 善悪が瞬時に動く時代をいかに生きるか
【村上春樹/時代と歴史と物語を語る】◆善悪が瞬時に動く時代をいかに生きるか静岡新聞4月17日の朝刊に掲載された、村上春樹のインタビュー特集について触れたい。私は決して“ハルキスト”と呼ばれる村上春樹マニアとは違う。だが、高校生のころから村上の著書を愛読し、今に至る。とはいえ、作品のすべてを支持しているわけではなく、中にはとうてい受け入れられないものもあるわけで、盲目的なファンとは言えないことが心苦しい。 さて、インタビュー記事についてだが、内容は大きく3つに分かれている。1つ目は、『地下鉄サリン20年重くのしかかる死』という見出し。事件が起きたのが平成7年のことなので、あれからもう20年が過ぎてしまった。同年に阪神大震災にも見舞われたというのに、あのオウム真理教のおかげで、世間はすっかり地下鉄サリン事件への批難や同情、恐怖と言ったものへとシフトしていってしまった。そんなオウム信者に対し、村上が取材したところ、その多くが「ノストラダムスの予言」を本気で信じているのを知ったと。 「彼らが10代のころに“ノストラダムスの予言”について書いた本が出て、それをテレビなどが盛んに取り上げた。“1999年に地球は滅びる”という不安があり、さらにそこに“スプーン曲げ”に代表される超能力信仰みたいなものが刷り込まれていった」 私自身、あのころを思い出してみると、確かにマスコミに踊らされたような記憶がある。いたずらに不安を煽られたような、、、だが、それも一時的なことで、しょせんはオカルトに過ぎないのだと、何となく冷めていった。 「そんな素地があるところに麻原彰晃が現れて、超能力っぽいことを少しやってみせると、すぽんとはまっちゃう。人間の心をクローズドサーキット(閉鎖回路)に引き込み、外に出られなくし、精神の抵抗力を失わせてから、サリンを散布させる」 あの時、オウム信者ら実行犯は、サリンというとんでもない化学兵器の必殺性を知っていた。知った上での行為は、麻原に対する絶大な尊崇の念と、帰依に違いなかった。だがそこに、罪のない一般の人々の人命が多数奪われることへの重大な過失を見出すことはなかった。停止した思考、想像力の欠如としか言いようがない。洗脳、マインド・コントロールされていた以前の問題ではなかろうか。 「麻原が信者に与えたこのような物語はいうなれば悪しき物語です。僕らはそれに対抗する力を持った物語を書いていかなくてはならない」 村上の意見に私も賛同する。私たちを取り巻く環境には、様々な物語が存在する。自分本位で深みを欠いた物語は、たいてい出来過ぎていてキレイゴトだけど、魅力的である。そこにどっぷりと浸からないよう、日ごろから対抗の力を備えておかねばならないと思う。 2つ目は、『ベルリンの壁崩壊以後ロジック拡散』という見出し。村上は「アルジェの戦い」という1960年代に作られた映画を、久しぶりに見たと。この作品は、フランスの植民地だったアルジェリアが、独立のために戦うという内容だそうだ。作られた当時、この映画を見た村上は喝采を送ったらしい。植民地のアルジェリアの人たちが善で、そこを統治するフランスが悪という構図だからだ。 「でも今、これを見ると、行われていること自体は、現在起きているテロとほとんど同じなんですよね。それに気づくと、ずいぶん複雑な気持ちになります」 つまり、この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるもの」なのだ。この価値観を受け入れるのはとても難しい。“白黒ハッキリする”という考え方を真っ向から否定するものだからだ。強いていえば、“ねずみ小僧”をイメージしてみたらどうだろう。(これは私なりのイメージ・トレーニングだが。)金持ちからがっぽりお金を盗んで貧乏人にそのお金を配ってやるねずみ小僧は、ヒーローである。だが、ねずみ小僧は紛れもない窃盗という罪を犯している。善悪の固定されない筆頭だ。村上は、そういうロジックの消滅について、「自分の無意識の中にある羅針盤を信じるしかない」と述べている。ならば、その羅針盤はどこから生まれてくるのか。 「体を鍛えて健康にいいものを食べ、深酒をせずに早寝早起きする。これが意外と効きます。一言でいえば日常を丁寧に生きるということです。すごく単純ですが」 私が村上春樹という作家が好きな理由は、この明快な回答にある。難しいことを四の五の言わずに、とても簡潔で、だれでも今すぐ始められそうな答えだからだ。もちろん、三食きちんと食べて早寝早起きすれば、みんながみんな善悪を簡単に規定できない世界を乗り越えていけるかと言えば、そうではない。しかし、村上春樹のコトバは、決してキレイゴトではない。意外に規則正しい生活こそが、健康で文化的な精神性を養うものだということを、少なくとも私は実感している。 3つ目は『東アジア文化圏大きな可能性』という見出し。村上は歴史認識の問題にも触れていて、「ちゃんと謝ることが大切」だと述べている。この点に関しては、私の考えと少し違う。歴史的背景とか文化・伝統がこれほどまでに異なる日中韓において、お互いを理解し、受け入れ合うというのは、ほとんど不可能に近いような気がするのだ。 「相手国が“すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ誤ってくれたから、わかりました、もういいでしょう”というまで謝るしかないんじゃないかな」 と、村上は述べているが、つまりそれって謝る=(イコール)賠償金などを払い続けていく、ということなのか?まさか、コトバ上だけの話ではないだろう、謝るということは。 また、原発の再稼働についても触れている。 「地震も火山もないドイツで原発を撤廃することが決まっているわけです。危険だからという理由で。原発が効率的でいいなんて、ドイツ人は誰も言ってません」 そうそう、英語の得意な村上ならではの“「原子力発電所」ではなく「核発電所」と呼ぼう”という提案には賛成だ。nuclear plant =核発電所と訳すのが正しいそうだ。*原子力=atomic power 毎日、新聞記事を隅から隅まで読んでいるわけではないけれど、こうして興味を持った特集について、自分なりの意見を織り交ぜて考えてみることは、とても大切なのではと思う。村上春樹が米国に滞在したおり、「メディアの論調の浅さにがくぜんとしました」と述べているが、私たち日本人にとっても他人事ではない。簡単なことではないが、「開かれた回路で再生される物語の意義」を考えつつ、この住みにくい世の中を生きていこうではないか。 静岡新聞(平成27年4月17日[金])『村上春樹さん 時代と歴史と物語を語る』より☆次回(読書案内No.163)は未定です、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから