読書案内No.193 村上龍/長崎オランダ村 自分と向き合うことの本当の意味を知らない日本人
【村上龍/長崎オランダ村】『長崎オランダ村』のハードカバー(初版本)を手にしたとき、そのカバー絵に度胆を抜いた。シュールレアリズムと分類される絵画は大好きなので、嫌悪感みたいなものは全くないのだが、その意味するところが理解できないと少々不安になってしまう。百聞は一見に如かずなので、本当はみなさんにぜひ見てもらいたいのだが、ざっくり説明すると、海上で戦争をしている船を背景に、洗面台が砂浜から空に向かっていくつも浮かんでいる。さらには一番手前に見える洗面台には水が張っていて、その上に小さな船が3隻浮かんでいるというもの。一体なんなんだろう??あまりに超現実的すぎて理解不可能だ。作者はロブ・スホルテとのこと。(詳しく知りたい方は、ネットで検索してください。) 今回は村上龍の『長崎オランダ村』を再読してみた。出版されたのはすでに30年も昔なので、時代を感じる。佐世保のハウステンボスのルーツとなった施設でもあり、最盛期には長崎観光の新しい目玉として話題をさらった。(ウィキペディア参照)村上龍はタイトルにある長崎オランダ村について、とやかく書いているわけではない。そこを舞台にはしているが、様々な人間模様を酒の肴に楽しんでいるような気がする。 あらすじはこうだ。“ケンさん”と呼ばれる「私」は小説家をしていて、故郷の長崎で講演をすることになった。ナカムラという後輩が長崎でイベント会社を経営しているため、そのナカムラからの依頼だった。講演はナカムラとの対談形式で無事に終わった。打ち上げにフランス料理の店に連れて行かれそうになったのを「私」が断り、地元の和食の店に行くことにした。そこでは、旨い食事を前にナカムラが何かを話したがっていることに気付く。「私」はナカムラが自閉的な息子を持つ親としての悩みを打ち明けたがっているな、と思った。「私」にも小学生の息子がいるものの、黙っていても分かり合える親子などいないので、ましてや他人の子どもの気持なんてわかるはずもない、と思う。ナカムラは、ワールドフェスティバルでの多種多様の人間が集合したときの苦労話を始める。イタリア、メキシコ、アメリカ、インドネシア、スペイン、トルコ、コートジボアール、ブラジル、タイ、韓国、フィリピン、上海、フィジー、アルゼンチン等々が、それぞれの正統な、あるいは我儘な主張をスタッフに訴えるのだと。言葉も文化もバラバラなので、主催国である日本の段取りなど守る者は一人もいない。「私」とナカムラは、これでもかと言うほどの料理を腹一杯に食べながら、延々と喋り続けるのだった。 『長崎オランダ村』に登場する「私」は、ほぼほぼ村上龍ご本人で、ナカムラというのはパパズミュージックの社長・中村氏とのこと。モデル小説なので、奇想天外なハプニングがあるわけでもなく、始終淡々としているけれど、バブル期の香りがどこからともなく漂って読後は何とも言えない感傷的な気分にさせられる。多国籍の人種が集まるところで日本人が最も苦手とするのは主張することなのかとつくづく感じる。というのも、自分に向き合うという歴史を持たない民族なので、とにかく周囲と円滑であることを良しとする風土がそうさせてしまうのだ。村上龍の言う「自分と向かい合うのを許さないかのように、みんなが仲良しであることを強制してくる」という一文に膝を打った。 世の中、空気を読めない人を悪者にするし、非常識だと非難する。こんな状況では本当の意味で自分と向き合うなんて、まず不可能だ。「自分に向き合うというのは、正確には、根底から自分を疑うということ」長い歴史を持つ日本だが、移民もいないし、混血の歴史もない。だが今後はそうはいかない。時代の流れには逆らえないからだ。我々は和を以て貴しとする民族性を内包しつつも、真っ向から自分に向き合える精神的な強さを持たなくてはならない。そんな耐え難い苦しみの向こうに、負の部分と向き合わなくて済む表現方法を見つけることができるのだ。それは人によって様々だが、宗教かもしれないし、芸術、あるいはスポーツかもしれない。日本人が少しずつ変わる必要に迫られているのは間違いない。 村上龍はすでに30年も前から小説という表現方法を借りて、警鐘を鳴らしている。『長崎オランダ村』は読み易いこともあるので、若い人たちにおすすめしたい。これからの日本を担っていく世代には、きっとヒリヒリするような刺激を与えられる一冊となるに違いない。 【補足】大人は自分と向き合うことで鍛えられる存在だが、子どもは絶対に自分と向き合ったりしてはいけない。子どもに必要なのは哲学ではなく、楽しいと思える時間なのだ。 『長崎オランダ村』 村上龍・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから