要約 金閣寺(三島由紀夫)
第一回 田舎の素朴な僧侶である父は「金閣ほど美しいものはこの世にない」と私に教えた。リアルな金閣を知らない私にとっては、父の語る金閣こそが最高のものであった。 近くに適当な中学校がなかった私は親元を離れ、叔父の家に預けられた。そこから東舞鶴中学校(現・京都府立東舞鶴高校)へ通った。私は体も弱く、吃りがあり、さらにはお寺の子だと言うので毎度イジメを受けた。 近所に有為子と言う美しい娘がいた。女学校を出たばかりで舞鶴海軍病院の特志看護婦である。私は度々有為子の体を思ってそれに触れるときの指の熱さ、弾力、匂いを思った。 ある晩、その空想に耽ってろくに眠ることのできなかった私は外へ出た。そして、とある欅の木陰に身を隠す。有為子がここを自転車で通勤するのを知っていたからだ。 私は有為子の自転車の前へ走り出た。自転車は急停車をした。 言葉こそがこの場を救うただ一つの方法であるのに、私の口からは言葉が出ない。「何よ、へんな真似をして。吃りのくせに」 有為子は石を避けるように私を避けて迂回した。その晩、有為子の告口で私は叔父から酷く叱責された。私は有為子を呪い、その死を願うようになり、数ヶ月後にはこの呪いが成就した。 と言うのも有為子は憲兵に捕まったのである。海軍病院で親しくなった脱走兵と男女の間柄となり、妊娠し、病院を追い出されたのだ。 その脱走兵の隠れ家を吐かせるため、憲兵らは有為子に詰め寄った。微動だにせず押し黙っている彼女は拒否に溢れた顔をしていたが、突然変わった。有為子は鹿原の金剛院を指差したのだ。憲兵は有為をおとりに脱走兵を捕まえようとした。有為子は御堂に潜む男に何かを語りかけた。男はそれを合図に手にしていた拳銃を撃った。有為子の背中へ何発か撃ち、今度は自身のこめかみに当てて発射したのである。有為子は憲兵らの詰問に負け、男を裏切ったかに思われたが、結局は一人の男のための女に身を落としてしまったに過ぎない。 父の死後、その遺言通り私は金閣寺の徒弟になった。「金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ」と私は呟いた。日に何度となく金閣を眺めにゆき、朋輩の徒弟たちから笑われるほどだった。 私は東舞鶴中学校を中退して、臨済学院中学へ転校したのだが、そこで鶴川と言う少年と出会う。鶴川の家は東京近郊の裕福な寺で、ただ徒弟の修業を味わわせるために金閣寺に預けられていた。東京の言葉を話す鶴川はすでに私を怖気づかせ、私の口は言葉を失った。ところが鶴川は初めて会ってから今まで一度も私の吃りをからかおうとしない。「なんで」と私は詰問した。私は同情より、嘲笑や侮蔑の方がずっと気に入っている。鶴川は「そんなことはちっとも気にならない」と答えた。私は驚いた。この種の優しさを知らなかったからだ。それまでの私と言えば、吃りであることを無視されたら、すなわち私と言う存在を抹殺されることだと信じ込んでいた。 終戦までの一年間は、私が金閣の美に溺れた時期である。私を焼き滅ぼす火は金閣をも焼き滅ぼすだろうと言う考えは、私を酔わせた。昭和19年11月に東京でB29の爆撃があった時、京都も空襲を受けるかと思われた。だが、待てども待てども京都の上には澄んだ空が広がるだけであった。 父の一周忌、母は父の位牌を持って上洛した。父の旧友である田山道詮和尚に、ほんの数分でも読経を上げてもらおうと考えたのだ。「ありがたいこっちゃな」 まともにお布施の用意もままならない母は、ただ和尚のお情けにすがったに過ぎない。母が言うには寺の権利は人に譲り、田畑も処分し、父の療養費の借金を完済したと。今後自身は伯父の家へ身を寄せるべくすでに話をつけてあるとのこと。 私の帰るべき寺はなくなった! 私の顔に、解放感が浮かんだ。「ええか。もうお前の寺はないのやぜ。先はもう、ここの金閣寺の住職様になるほかないのやぜ」 私は動転して母の顔を見返した。しかし怖ろしくて正視できなかった。 戦争が終わった。敗戦の衝撃、民族的悲哀などと言うものから、金閣は超絶していた。とうとう空襲に焼かれなかったのである。「金閣と私との関係は絶たれたんだ」と私は考えた。敗戦は絶望の体験に他ならなかった。私には金もなく、自由もなく、解放もなかった。せいぜい老師に巧く取り入って、いつか金閣を手に入れよう、老師を毒殺してそのあとに私が居座ってやろうといった他愛もない夢ぐらいしかなかった。 日曜の朝、私は泥酔した米兵の案内を頼まれた。私は鶴川より英語はよくできたし、不思議なことに英語となると吃らなかったからだ。米兵は女をつれていた。女は外人兵相手の娼婦で、酷く酔っていた。私は型通りに金閣を案内した。そのうち男女の間に口論が起こった。激しいやりとりだったが私には一語も聴き取れなかった。女は米兵の頬を思い切り平手打ちにした。駆け出した女に米兵はすぐに追いつくと、女の胸ぐらを掴み、突き倒した。女は雪の上に仰向けに倒れた。「踏め。踏むんだ」 米兵が英語で言った。私は何のことかすぐには理解できないでいたが、やがて命じられるがまま、春泥のような柔らかな女の腹を踏んだ。女は目を瞑って呻いていた。「もっと踏むんだ。もっとだ」 私は踏んだ。私の肉体は興奮していた。米兵は「サンキュー」と言って私にチップをくれようとしたが、私は断り、代わりにタバコを2カートン受け取った。私は命ぜられ、強いられてやったに過ぎない。もし反抗したらどんな目に遭っていたかしれないのである。その後、私はタバコ好きの老師に2カートンのチェスターフィールドを差し出した。老師はこの贈り物の意味を何も知らずに受け取った。「お前をな大谷大学へやろうと思ってる」 退がろうとする私を引き止めて老師が言った。 後でそのことを知った鶴川は、私の肩を叩いて喜んでくれた。(彼は家の費用で大谷大学へ行かしてもらうことになっている。) しかしこの進学については一波乱ある。大谷大学の予科へ入った時だ。皆の態度が常と異なるものを感じた私は、渋る鶴川に詰問した。するとこうだ。大谷大学進学の許しが出て一週間後、例の外人兵向の娼婦が寺を訪れたと言う。住職と面会した女は、私が女の腹を踏みにじったくだりを具に話し、あげく流産したとのこと。幾ばくかの金をくれなければ鹿苑寺を訴えると言ったのだと。鶴川は涙ぐんで私の手を取り、「本当に君はそんなことをやったのか?」と聞いた。私は公然とこの友に嘘をつく快楽を知った。「何もせえへんで」 鶴川の正義感は高じて私のために老師に釈明してやるとまで息巻いた。だが私はこれを止めた。老師はすでに見抜いていたかもしれない。私の自発的な懺悔を待ち、大学進学の餌を与え、それと私の懺悔を引き換えにしたのかもしれない。すべてを老師が不問に附したことは、かえって私のこの推測を裏書きしている。 こんな経緯がありながら、結局、私は大谷大学へ進んだ。鶴川には新しい友が増える一方で、吃りの私はいまだ独りだった。私以外にも皆から一人離れる厭人的な学生がいた。柏木と言う男で、両足が内飜足であった。入学当初から彼の不具が私を安心させた。私は思い切って柏木に吃り吃り話しかけた。講義で分からないところを教えてもらおうと思ったのだ。「君が俺に何故話しかけてくるか、ちゃんとわかっているんだぞ」 柏木は二の句を継げずにいる私に向かって「吃れ!吃れ!」と面白そうに言う。「君はやっと安心して吃れる相手にぶつかったんだ。そうだろう? 人間はみんなそうやって相棒を探すもんさ。それはそうと、君はまだ童貞かい?」 私は頷いた。すると柏木は不具の自分がどうやって童貞を脱却したかを話し出した。 柏木は自分の村に住む老いた寡婦に目をつけた。臨済宗の禅寺の息子である柏木は父親の代理でその老婆のところへ経をあげに行った。読経が済んで茶をご馳走になった時、折しも夏、水浴びをさせてもらいたいと頼んだ。柏木の心には企みが浮かんだのだ。水浴びを済ませて体を拭いている際、それらしいことを語り始めた。「俺が生まれた時、母の夢に仏が現じて、この子が成人した暁、この子の足を心から拝んだ女は極楽往生すると言うお告げがあった」 信心深い寡婦は数珠を手に柏木の目を見つめて聴いていたのだ。柏木は裸のまま仰向けに横たわり、目を閉じ、口だけは経を唱えていた。笑いをこらえながら。 老婆は経を唱えながら柏木の足をしきりに拝んでいる。この醜悪な礼拝の最中に、柏木は興奮し、起き上がり、老婆をいきなり突き倒した。それが柏木の童貞を破った顛末だった。私は柏木についてもっと知りたいと思った。初めて午後の講義を怠けたのである。 その後、私は柏木が言う「内飜足の男を好きになる女」と言うものを知った。世の中にはそう言う趣味のある女がいて、柏木にはそれがカンで分かるのだそうだ。実際、柏木は自分の不具を利用し、女に一芝居打って自身に惚れさせるという現場を、私は目の当たりにした。 鶴川はそんな私と柏木との付き合いを快く思っていなかった。友情に充ちた忠告をして来た鶴川を拒絶したことで、彼の目に悲しみの色が浮かんだ。 5月、柏木と私は平日に学校を休み、嵐山へ出かけた。彼は令嬢を伴い、私のためには下宿の娘を連れて来た。二人とも柏木と体の関係のある女だが。 途中、男女ペアに分かれた。もちろん私の方には「下宿の娘」がついて来た。私たちは花陰に腰をおろし、長い接吻をした。ずいぶん夢見ていたはずのものでありながら、現実感は稀薄だった。その時、私の前に金閣が現れた。金閣自らが化身して私の人生への渇望の虚しさを知らせに来たのだと思った。 そんな惨めな遊山の後、老師宛に訃報が届いた。鶴川が事故で死んだのだ。柏木と付き合うようになり疎遠になっていた私だが、失って分かるのは私と明るい世界とを繋ぐ一縷の糸が、その死によって絶たれてしまったことである。私は泣いた。そして孤独になった。私は鶴川の喪に一年近くも服していた。孤独には慣れていて努力は不要だった。生への焦燥もなく死んだ毎日は快かった。 私は金閣の傍らに咲くカキツバタを2、3本盗んだ。それは柏木から貰った尺八の礼であった。金のかかる礼はいらないが、せっかくだからと柏木が私に小さな盗みを示唆したのである。柏木はカキツバタを器用に活けた。どこで習ったのかを聞くと、「近所の生花の女師匠だ」と言う。柏木と女師匠は付き合っているのだが、自分はもう飽きたから私にくれてやると言うのだ。しかし私にはその女師匠については過去の記憶があった。3年前、鶴川と二人で南禅寺を散策していた時のことである。天授庵の一室で女と若い陸軍士官が対坐していた。女は男の前に茶を勧めた。ややあって女は乳房の片方を取り出し、男は茶碗を捧げ持った。女はその茶の中へ乳を搾ったのである。私はその女の面影に有為子を見たのだ。その女こそ柏木から捨てられる予定の女師匠なのだ。 さて、女はやって来て、柏木から「もう、あんたに教わることは何もない。もう用はない」と、こっぴどく捨てられた。女は錯乱し、柏木から平手打ちをくらい、部屋を駆け出して行った。「さぁ、追っかけて行くんだ」と子どもっぽい微笑を浮かべた柏木に押され、私は女を追った。 女の愚痴を聞いただけで大した慰めもしたわけではないが、女は帯を解いた。私の前に乳房を露わにしたのである。だがそれは私にとって肉そのものであり、一個の物質に過ぎなかった。するとそこにまた金閣が出現した。と言うよりは乳房が金閣に変貌したのである。私は女と関係することなく寺へ帰った。金閣は頼みもしないのに私を護ろうとする。何故か私を人生から隔てようとするのだった。 昭和24年正月、私は映画を見た帰りに新京極を歩いた。その雑沓の中で見知った顔に行き当たった。明らかに芸妓と分かる女と歩いていたのは、他ならぬ老師であった。私にはやましいことはなかったが、老師のおしのびの目撃者となることを避けたかった。たまたま雑沓に紛れて歩く野良犬に気付いた私は、その犬に導かれるように歩いた。 こうして私は暗い電車通りの歩道へ出た。すると目の前に一台のハイヤーが止まった。思わずその方を見ると、女に続いて乗ろうとしている男に気付いた。老師であった。老師はそこに立ちすくんだ。私は動転した。吃りのせいもあって言葉が出ない。すると私は自分でも思いがけず、老師に向かって笑いかけてしまったのである。老師は顔色を変えた。「バカ者! わしをつける気か」老師は、私が嘲笑ったのだと誤解した。 翌日、私は老師からの呼び出しを待った。だが、娼婦の腹を踏んだあの事件のときと同様に、老師の無言による拷問が始まったのだ。 その年の11月、私は突然出奔した。直接の動機は、その前日、老師から「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今ははっきりそういう気持がないことを言うて置く」と明言されたことによる。私はその時、自分の周りにあるすべてのものから暫くでも遠ざかりたいと思った。柏木に三千円の借金を申し込んだ。「何に使う金なんだ」「どこかへ、ぶらっと旅に出たいんだ」「何から逃れたいんだ」「自分のまわりのものすべてから逃げ出したい」「金閣からもか」「そうだよ。金閣からもだ」 敦賀行きは京都駅を午前6時55分に発つ。あまり混んでいない三等の客車で、私は死者たちを追憶していた。有為子、父、そして鶴川の思い出は私の中に優しさを呼びさました。 舞鶴湾。それは正しく裏日本の海。私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉。醜さと力との源泉だった。海は荒れていた。突然、私に想念が浮かんだ。「金閣を焼かねばならぬ」 明治30年代に国宝に指定された金閣を焼けば、それは取り返しのつかない破滅である。一見、金閣は不滅と思われがちだが、実は消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう、と思った。 その後、三日に渡る出奔は打ち切られた。一歩も宿から出ない私を怪しみ、通報されたのである。私は警官の尋問に答え、学生証も見せ、宿料も支払った。私は私服警官に送られ、鹿苑寺まで帰ることとなった。 それから私が悩まされたのは、柏木からの再三の督促であった。利子を加えた額を提示し、私を口汚なく責め立てた。だが私は黙っていた。世界の破局を前にして借金を返す必要があるのだろうかと思ったからだ。しびれを切らした柏木は、結局、老師に告口をしたのである。 老師から呼び出された私は、「もう寺には置かれんから」と言われた。代わりに柏木には利子を差し引かれた元金のみが老師によって返済された。 柏木は郷里へ帰る前日、鶴川からの4、5通の手紙を見せてよこした。鶴川は私の知らないところで柏木と親しくしていたのだ。彼は私には一通も寄越さなかったが、柏木には書き送っていた。私と柏木との交遊を非難しながら、自分は死の直前まで密な付き合いをしていたのである。手紙を読み進むにつれて私は泣いた。鶴川は、親の許さぬ相手との不幸な世間知らずの恋に苦悩していたのだ。私は泣きながら、それに呆れてしまった。鶴川の死は事故などではなく、自殺だったのである。私は怒りに吃りながら「君は返事を書いたんだろうな」と聞いた。「死ぬなと書いた。それだけだ」 私は黙った。 柏木とのことがあって五日後、私は老師から授業料等550円を手渡された。まさかその金をくれるとは思いもしなかったのだが。 私はその金を持って北新地へ出かけた。金閣を焼こうとしていることは死の準備にも似ていた。自殺を決意した童貞の男が廓へ行くように、私も決行の前に廓へ行った。 その日が来た。昭和25年7月1日である。私は最後の別れを告げるつもりで金閣の方を眺めた。 私は火をつけた。火はこまやかに四方へ伝わった。渦巻いている煙とおびただしい火の粉が飛んでいるのを見た。事前に用意していた(ポケットの中の)カルモチンや短刀のことを忘れていて、突発的にこの火に包まれて死んでしまおうと思った。だが死場所と考えた三階の究竟頂の扉が開かない。鍵が堅固にかかっていたのだ。私は拒まれているという意識が起こった。身を翻して駆けた。左大文字山の頂まで来ていた。ここから金閣の形は見えないが、爆竹のような音が響くとともに空には金砂子を撒いたような光景が見えた。私は短刀とカルモチンの瓶を谷底めがけて投げ捨て、一服した。生きようと思った。(了)