要約 変身(カフカ) 翻訳:池内紀
第二回 《序文》 数多の翻訳家がカフカの「変身」を和訳している。その中から、私はあえて池内紀(敬称略)の「変身」を選んだ。そして折にふれ何度となく読んだ。訳者のあとがきまで余さず読了した。(むしろ、そのあとがきが読みたくて「変身」を読み直したのかもしれない。)池内紀のつむぐやさしい翻訳は、敬遠しがちなドイツ文学を私たちの身近なものにした。私などは池内紀の翻訳のおかげで、一気にカフカのファンになったほどである。とは言え、人にはそれぞれ好みというものがある。自分に合った翻訳を見つけ、海外文学を楽しめたらと思う。変身(フランツ・カフカ 訳:池内紀) ある朝、目を覚ましたら一匹の虫になっていた。グレーゴル・ザムザが頭を少しもち上げてみると、こげ茶色の丸い腹が見え、無数の脚がワヤワヤと動いている。「どういうことだろう?」と彼は思った。自分の部屋であることは間違いない。グレーゴルはセールスマンなので、部屋には布地の見本が散らかっている。今日も朝イチで仕事に出かけなくてはならないのだが、虫である自分の体を思うように動かせず、寝返りを打つことさえままならない。 「ウッヒャー!」彼はたまげた。もう6時半。乗るはずの5時の列車には間に合わない。職場への言い訳をあれこれと考えていると、起きて来ない息子を心配した母が「どうしたの、グレーゴル」と声をかけて来た。次に父が、さらには妹までもが心配して呼びに来た。だがグレーゴルは習慣でドアにカギをかけて寝ているため、家族が部屋に入って来られないのだ。 とりあえずベッドから出なくてはと思うものの、そう簡単には起き上がれない。 時計が7時を知らせた。そろそろ職場の誰かが様子を見にやって来るに違いない。 そんな折、玄関のベルが鳴った。支配人が直々にやって来たことを知った。 家族が代わる代わるドアをノックし、グレーゴルに開けるよう催促する。「ザムザ君、いったいどうしたんだ? 部屋に閉じこもってしまって。まったくもって、あきれはてた。もっとしっかりした、ものごとをきちんと考えられる人間だとばかり思っていた。ところが突然、こんな気まぐれをやらかすとはどうしたことだ」「だから支配人」グレーゴルは我を忘れて声を上げてしまった。「すぐに、いますぐに支度をします。ちょっと気分が悪かったのです。目まいがして、起き上がれなかったのです。いままだベッドの中ですが、もう大丈夫です。ベッドから出るところです。もう少々、我慢してください!」 自分でも何を言っているのかほとんどわからないまま、一気呵成にしゃべり立てた。ところがそれに対し支配人は「ひとことぐらい、わかりましたか?」と傍にいる両親にたずねている。「獣の声でしたよ」 両親はあわてふためき、医者と錠前屋をつれてくるよう叫んだ。 グレーゴルは錠前屋が来るのを待たず、自力でどうにかカギを開けることに成功した。「みなさん、(わたしに)早いとこ(仕事に)出かけてもらいたいんでしょ? わたしは強情じゃない、大の仕事好き。」 支配人はグレーゴルの最初のひとことで背を向けた。グレーゴルは支配人に詰め寄った。支配人はその気配を感じ、階段を何段かひとっ跳びして逃げ出した。見かねた父は、ステッキと新聞を振り回しながら「しっ、しっ」とグレーゴルを部屋へ追い戻そうとする。しまいにはグレーゴルを後ろから思うさま突き押して部屋に閉じ込めてしまった。 夕方、重苦しい眠りから目を覚ましたグレーゴルは、ゆっくりと這い出した。触角が役立つことに気付いて、おずおずと辺りをさぐってみる。事のしだいを確かめるためドアのところに来てみると、食べ物の匂いがする。小さくカットされた白パンの浮かんだ甘いミルクが置かれていたので、すぐさま頭を突き入れた。だがまるで舌に合わない。これまではグレーゴルの好きな飲み物だったのに。今やほとんど嫌悪しかない。彼はこそこそとソファーの下に這い込んだ。 翌朝早くドアを開けたのは妹である。グレーゴルの存在に緊張しながら、おそるおそるミルクの注がれている鉢を見た。まだたくさん残っていたが、妹はすぐさまそれを外に運び出した。 グレーゴルは空腹のため、妹が何か代わりの食べ物を持って来てくれることを願った。だが妹が持って来たものはグレーゴルの予測を超えていた。腐りかけた古い野菜、夕食から出た骨、何粒かの干しぶどうとアンズ、とても食べられたものではないチーズ、乾いたパンなどが古新聞に乗せられていた。妹はそれを置くと、慌ててそこから離れ、カギをかけた。「繊細さってものが薄れたのかな?」 そんなことを思いながら、グレーゴルはガツガツと貪り食った。 時折、隣室から話し声がもれてきた。彼はすぐさま声のする側のドアへ急ぎ、全身をドアにはりつけた。これからどうするべきかが話題になっている。 5年前、父の商売が破産した際、身を粉にして働いたのはグレーゴルであった。つましい事務職から旅廻りのセールスに転じたのも、格段に稼ぎが良いからである。その後、家計の柱となったグレーゴルは給料をほとんどそっくり渡し、家族から感謝されたが、そのうちそれが当然のようになった。父は就活を辞め、喘息持ちの母は専業主婦となり、妹はバイオリンが得意なので音楽学校への進学を口にするようになった。グレーゴルは妹のためにその学費を工面してやろうと思っていたところ、今やそれも叶わなくなり、頭をドアに打ちつけるしかない。その音で隣室の声がやむ。「あいつ、また何をしていることやら」と少し間をおいて父が言った。 グレーゴルの変身からひと月あまりが経った。彼の部屋の掃除は専ら妹の仕事となっていた。母はグレーゴルに会いたがって、「グレーゴルのところへいかせて。わたしの可哀そうな息子なのよ!」と叫んだ。それを聞いてグレーゴルも母に会いたいと思った。だが、父と妹はもっともな理屈を並べてそれを阻止するのだった。 グレーゴルは、数平方メートルの狭い床をのべつ這い回っていることも、じっと寝そべっているのもうんざりした。食事には少しもよろこびを感じなくなった。そこで彼は、気晴らしのために、壁や天井をあちらこちらと這い回ることにした。這い回る際にネバネバした足あとをあちこちにつけていた。 16歳の妹は、すぐさま兄の新たな奇行に気が付き、家具類を取り除くことを考えた。だが重みのある戸棚や書き物机をたった一人で動かすことは難しい。だからと言って父に頼むわけにもいかず、女中もあてにならない。そこで、父が外出している間に母の手を借りようと思った。 2人は部屋の戸口まで来ると、妹がまず中の様子を確認した。「さぁ、入って」と妹が言った。か弱い2人の女が、重々しい戸棚を動かそうとする音を、グレーゴルはじっと聞いている。そのうち母がささやくような小声で言った。「家具を運び出すと、よくなる希望を捨ててしまって、すっかりあの子を見捨てたように見えないかしら?」 母の言葉に耳をすましていたグレーゴルは思った。部屋が空っぽになれば、それだけ自分は自由に這い廻ることができる。しかし、同時にそれは、人間としての過去を急速に、あまさず忘れていくことにならないか? そうこうするうち、女たちが彼の部屋から家具を残らず運び出していく。グレーゴルは這い出て来た。とにもかくにも何を守るべきか、自分でもはっきりしていなかったが、壁にかかる婦人像の絵に目がいった。グレーゴルは大急ぎで這いのぼり、その額にぴったりと体を押しつけた。少なくともこれは持っていかせないと思ったのだ。 隣室でひと休みしていた母と妹が戻って来た。壁にへばりつくグレーゴルと妹の目が交叉した。彼は絵の上にドッカと腰をおろした。決して渡すものかと思ったのだ。 母は、目にしたものがグレーゴルだとわかった瞬間、「ああ、何てこと!」と絶望したようにバッタリとソファーの上に倒れてしまった。「グレーゴル、あんたのせいよ!」 妹がこぶしを振り上げ、刺すような目でにらみつけた。 その後、父が帰宅し、妹から経緯を聞いた。だが妹の言葉たらずの報告を誤解し、グレーゴルが何らかの暴力をふるったととらえた。 父はグレーゴルめがけてリンゴを投げつけた。食器棚の果物カゴから取り出し、ポケットにつめこみ、次々とリンゴを投げつける。背中に命中したことで思いもかけない痛みに驚いたグレーゴルは、這いずって逃げようとしたが、結局そのままつっぷしてしまった。かすむグレーゴルの目に映ったものは、彼の命乞いをする母の姿であった。 夜も昼も、グレーゴルはほとんど眠れないままに過ごしていた。家族はグレーゴルのことでいさかいが絶えず、あさましい言い争いをくり返している。グレーゴルは腹立ちのあまり鋭い声をもらした。 家計を助けるため、住居内の一部屋を3人の男に貸した。3人の間借人たちは、かつて父と母とグレーゴルが座っていたテーブルの上座に席を取り、夕食を平らげた。代わりに家族の者たちは皆、台所で食べた。 食後、台所で妹がバイオリンを弾いているのを聴いた間借人が、居間で弾くようすすめた。妹が台所から居間に移動して、バイオリンの演奏を始めると、その演奏に引き寄せられて、グレーゴルが頭を居間に突き出した。手伝い女が居間へのドアを少し開けたままにしていたのだ。 グレーゴルは全身、ホコリだらけで、糸くず、髪の毛、食べかすと言ったものが背中や脇腹にへばりついている。その姿に誰も気付かない。両親はバイオリンの演奏に夢中になっていたが、間借人たちはすでに飽きていた。ただ礼儀上から我慢しているにすぎない。 グレーゴルはまた少し前へ乗り出した。妹を音楽学校へ行かせてやろうと決めていた。このたびの災難がなければ、(両親から)異議が出ようとも取り合わず、クリスマスにでもそれを打ち明けようと思ったのだ。「ザムザさん、ほら!」 男が父に向かって叫ぶと、グレーゴルを指さした。バイオリンがやんだ。父はあわてて間借人たちを部屋へと急き立てながら、同時に自分の体でグレーゴルを見させまいと努めた。「いま、はっきり言っておく。ただちに部屋の解約を通告する。これまでの間借代は、いささかも支払うつもりはない」 1人の男がそう言うと、すぐに他の2人も同意し、大きな音を残してドアを閉めた。父はよろけながら椅子に倒れこんだ。「もうこのままではダメ。このへんな生き物を兄さんなんて呼ばない。だから言うのだけど、もう縁切りにしなくちゃあ。人間として出来ることはしてきた。面倒をみて、我慢したわ。誰にも、これっぽちも非難されるいわれはないわ」 妹がきっぱりと言った。父も、「まったくこいつの言うとおりだ」と同意する。 それまでじっと立っていたグレーゴルが動き出した。妹が悲鳴をあげたが、単に向きを変えようとしただけで、家族を怖がらせるつもりなど毛頭なかった。途方もない空腹によって体力が落ちているせいで、グレーゴルの動きはひどく緩慢だった。荒い息づかいを抑えることができず、何度も休みながら部屋へ向かった。だがその道のりの遠いことに驚く。 やっとグレーゴルが部屋へ入るやいなや、ドアが激しい勢いで閉じられ、錠が下ろされ、カギをかけられた。 グレーゴルは暗闇の中で、家族のことを懐かしみと愛情を込めて思い返した。消え失せなくてはならないと思った。鼻孔から最後の息が弱々しく流れ出た。 早朝、手伝い女がグレーゴルの部屋をのぞいて、その死を夫妻に知らせた。ザムザ氏が「神さまに感謝しなくては」と十字を切った。他の女たちもそれに倣った。 3人の間借人たちが部屋から出て来て「朝食はどうした?」と不機嫌にたずねた。手伝い女は、黙ったままグレーゴルの部屋へ手まねきし、その死骸を見せた。「すぐに出ていってもらおう!」 ザムザ氏は言うなり、ドアを指さした。 3人は黙って一礼し、住居を出て行った。 父と母、それに妹は、晴れ晴れとした気持ちで、今日という日を休息と散歩にあてることにした。 それから3人は、そろって電車で郊外へ出かけた。のんびりと座席にもたれ、将来の見通しを話し合ったりした。生き生きしてきた娘を眺め、夫妻はそろそろ娘にいい相手を見つけてやるころあいだと思った。電車が目的地に着いたとき、娘の一挙手一投足に、自分たちの新しい夢と、楽しい将来を見たような気がした。(了)