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吟遊映人 【創作室 Y】

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2022.07.30
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第十九回


14歳と9ヶ月のモーリス・ホールは、もうじきパブリック・スクールに進級しようとしていた。
小学校最後の遠足の際、父親のいないモーリスに、デューシー先生が「父親になったつもりで話をするぞ」と、性の神秘について解説した。モーリスがわかりやすいように砂浜に杖で絵を描いてみせ、何か質問があるかと様子を窺うが、特に何もないようだった。
結局のところ、先生は、高貴な女性を愛し、守り、仕えること、それこそが人生の頂点だとモーリスに教えたかったのだ。

サニントンがモーリスの人生の次の舞台だった。サニントンの校風は高潔だったが、体の成長とともに性欲が湧いてどうしようもなかった。敬愛の念を抱くのは少年ばかりだった。モーリスの感情は常に混沌としていた。

19歳になると、モーリスはケンブリッジ大学へ入学した。1年目のときは、他のサニントンの卒業生たちと小さくまとまり過ぎていたが、2年目になると変化が訪れた。
リズリーという博識で気取った男だったが、どこか女々しい表現を使う学生で、モーリスはその男に興味を持った。
リズリーは弁論部に所属していることでも有名で、モーリスはリズリーに倣って自分も奔放に生きようと思ったのだ。己の苦悩を解決する糸口が見つかるかもしれないと思ったからだ。
ある夜、モーリスは仲間に知られるこもなくリズリーの部屋を訪れた。だがあいにく彼は不在で、モーリスと同じコレッジで1級上のクライヴ・ダラムがいた。
そしてこの男こそ、後のモーリスを魂の底から夢中にさせるのだ。
クライヴは単に賢いだけでなく、冷静で秩序立った思考ができた。また、自分の弱点も理解していて、皆が信頼しきっているような教師でさえ無条件には誉めない客観性を持っていた。
モーリスはもうふだんの生活には戻れないと思った。
次の機会にリズリーに会ったとき、(あれだけ気になる存在だったのに、クライヴを前にして)すでに関心は湧かなかった。モーリスとクライヴは一気に親しくなった。

休暇に入ったのでモーリスは帰省した。
クライヴという特別な存在ができたことが嬉しくて、母と2人の妹たちエイダとキティに、彼のことをしゃべり続けた。
家族はモーリスにもやっと友人ができたのだと理解したが、モーリスの言う「無神論」(クライヴの思想による影響)については「これほど不幸なことはない」と、母親は納得しなかった。だがモーリスは頑なにも教会にはもう行かないと宣言したのである。

休暇が終わって大学に戻ると、モーリスはクライヴと再会し、固く抱き合った。クライヴは周りに人がたくさんいるのも省みず、痛いほどの青い眼で見つめ、ささやいた。
「君を愛している」
モーリスは衝撃を受け、震え上がった。思わず「くだらない!」と言ってしまった。
クライヴは去っていった。
2人はそれから2日間話さなかった。
モーリスのように性格がのんびりしていると、自分の本当の気持ちに気づくことさえ時間がかかる。モーリスはベッドに横たわると、声を殺して泣いた。もう己を欺くのはやめようと思った。女性を好きなフリをするのはやめよう、自分が惹かれるのは同性だけなのだから、男が好きなのだ。モーリスははっきりとそれを認めた。
3週間後、今度はモーリスの方からクライヴに「愛している」と告白した。だがクライヴはその言葉を信用しなかった。モーリスも引かなかった。やっと自分の本当の気持ちに気づくことができたのに、それをなかったことにはできないからだ。
深夜、モーリスは雨でびしょ濡れになりながら、クライヴの部屋を見上げた。
夜明けとともにクライヴの部屋に忍びこむと、クライヴの見る夢の中から「モーリス」と名前を呼ばれた。モーリスは感情が満たされ「クライヴ!」と答えた。

ある晴天の日、モーリスとクライヴは講義をサボって遠出することにした。サイドカーのついたオートバイで走っていると、途中、学生監に呼びかけられた。だがモーリスはろくな返事もせず、静止するのを振り切った。
オートバイはずいぶん遠くまで走ったところで故障した。
ケンブリッジに戻ると、学生監はモーリスを停学処分にした。
一波乱あった後、モーリスはクライヴ邸を訪れ、あるいはクライヴがモーリス邸を訪れたりするうちに両家は昵懇になっていた。
クライヴは司法試験に見事合格した。ゆくゆくは政治の世界に入るつもりだったからだ。
そのころクライヴはインフルエンザに罹って寝込んでしまい、見舞いに出向いたモーリスまで感染してしまい、やはり寝込んだ。
回復したクライヴがモーリスの様子をうかがいに来たところ、モーリスよりかえってクライヴの顔色の方が悪く、何かに苦悩しているようだった。
案の定、クライヴはモーリスの家族と歓談中に倒れてしまい、モーリスの世話になった。
モーリスはかいがいしくクライヴの面倒をみた。クライヴの吐瀉物の始末からそれこそ下の世話まで。
症状は重くなかったので、クライヴは帰ることができた。
そのころを境に、クライヴのモーリスに対する態度は冷えていった。それの意味するところは一つだった。「ぼくは普通になった。他の男と変わらなくなった」とクライヴは言った。
クライヴは女を好きになった。かつて愛したモーリスとは二人だけになることを嫌がり、抱きしめられることに抵抗を感じるようになったのだ。
「ぼくは変わったんだ。本当に変わった」
モーリスは混乱し、それを受け入れることなど到底できなかった。あれこれとクライヴを追求し、その理由を探ろうとしたが、そのときのモーリスに冷静な判断など不可能だった。
本当の意味での破局は春に訪れた。
クライヴが婚約したという手紙が届いたのである。最初、モーリスはクライヴが訪れた際に、妹のエイダと何かあったのではと疑惑の目を向けたが、それは見当違いであった。
クライヴの婚約者は上流階級の令嬢だった。
モーリスは孤独だった。神も恋人もいなかった。もう自分の偏った性癖は医師に相談するしかないと思った。自力で己の性欲を抑え込むことのできない今、どんな治療でも耐えてみせると決意したのであった。
だが、そんなモーリスの意気込みも虚しく、医者の力でも彼の苦悩はどうすることも出来なかった。

一方、クライヴは身を固めたことで、いよいよ政治家として忙しく動き回っていた。女性と結婚したことで精神が安定し、それこそ肉欲も満たされた。気がかりなのはモーリスのことであった。真の友を地獄の底から救い出したいと思った。異性との結婚がいかに素晴らしいものか伝えたいと思った。自分は忙しく選挙運動で屋敷を出払っているが、その間、自由に宿泊し、ゲームをしたり狩りをするなどして休暇を楽しむようにと、モーリスに勧めた。
せっかくの厚意も無碍に出来ず、モーリスはクライヴ邸にやって来たが、クライヴが気遣うほどにはクライヴのことを気にしていなかった。モーリスはもう以前と同じ人間ではなかった。自分という存在の再構築が始まったのである。

クライヴ邸の使用人の1人であるスカダーは、堅信礼を済ませていないことで、牧師やダラム夫人の議論の的となっていた。
ここの庭番であるスカダーは、兄の誘いを受けて、近々移住の予定があった。ダラム夫人は、スカダーの移住先であるアルゼンチンの聖職者宛に、紹介状を書いてあげたらどうかと牧師に提案した。モーリスはくだらないと思った。身分の高い連中は、暇潰しか何か、スカダーのような使用人という立場にある男の魂にケチをつけたがるのだ。モーリスは、スカダーを庇うような形で、「教会の落ち度であってスカダーは悪くない」と言ってやった。彼らの会話が聞こえたのか否か、スカダーは壁にもたれて立っていた。
モーリスはスカダーに親しみを覚えて話しかけた。平凡な会話、取るに足りない出会いではあったが、モーリスを和ませ、幸福感を抱かせるには充分なものだった。
夜、モーリスは眠れなかった。寝られないことには慣れていたが、辛いものになることがわかった。
モーリスは夢うつつでベッドから飛び起きて、窓のカーテンをサッと引き、「来い!」と叫んだ。
日中、屋根の修繕をしていた男たちが梯子をかけたままにしていた。そこから登って来た誰かがモーリスの眠るベッドのすぐ横に跪いた。そして彼に触れた。
男は、アレック・スカダーだった。クライヴ邸の使用人の。モーリスは満たされた。クライヴとは精神的なつながりはあったものの、肉の喜びは知らなかった。モーリスはアレックを貪ることで、肉の喜びを知った。
つかの間の情事の後、アレックは静かに梯子を降りて行った。

モーリスはクライヴに駅まで送ってもらい、帰路に着いた。
モーリスは帰って早々、電報を受け取った。アレックからだった。己があの庭番の少年に何をしたのかを考えれば、強請られてもおかしくない。その後も何度か手紙が届いた。内容は「会いたい」というものだった。モーリスは恐怖と怒りで打ち震えたが、結局、会うことにした。
大英博物館で再会した2人だったが、なぜかモーリスは不快になることも腹を立てることもなかった。
もちろんアレックは精一杯の強がりを見せ、モーリスを恐喝しようとしている形を見せたが、それもわざとらしく思えた。
事実、アレックはロンドンを離れ、兄とともにアルゼンチンへ行く前に、ひと目モーリスに会いたかっただけなのだと言った。
モーリスは見知らぬホテルにアレックを連れて行き、2人は幸福感に包まれた。2人だけの休日。彼らは惰眠を貪り、グズグズ過ごし、ふざけ、愛し合った。
モーリスは「また会おう」と言ったが、アレックは出航しなくてはならないと言った。この先二度と会うことはない、と。モーリスは「イギリスに残ればいい」と言ったが、アレックはムリだと言った。

後日、モーリスはアレックを見送るためにサウサンプトン港まで出向いた。しかし、船内を隈なく探したところでアレックはいなかった。モーリスはもしやと思った。アレックはアルゼンチンには行かず、イギリスに残るのではと。モーリスは狂喜した。
モーリスはその足でクライヴ邸を訪れた。過去の恋人であるクライヴには包み隠さず事実を話した。
クライヴ邸の使用人である少年と恋に落ちたこと。体を含めすべてを分かち合って満たされたこと。さらに、アレックが自分の将来を犠牲にしてアルゼンチンには行かず、イギリスに残ったことを伝えた。
クライヴが何かを言い返そうとしたとき、そこにモーリスの姿はなかった。クライヴは、モーリスがどの時点で彼の心がクライヴから離れていったのか、生涯わからなかった。

(了)


なお、次回の要約は



を予定しています、こうご期待♪

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最終更新日  2022.07.30 08:00:10
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