二日で終わったペットロス
# 1666週末の土日たった二日間で すべてのことが展開して、そして済んでしまったので月曜日からは普通の日常を過ごさないといけなくなった。いつもどおり朝起きて、いつもの時間に出かけていく。いつもと同じように職場へ行き、いつもどおり仕事を・・・いや、出勤するやいなや泣き崩れてしまった。幸いその場には気心の知れた同僚がひとりいただけだったので、まぁさぞかし驚かせたとは思うけれどひととおり話を聞いてくれた。話しているうちにどこか他人事みたいに客観的に捉えて状況を思い出している自分がいて、人に話すことがセラピーになるとは案外、本当なんだななどと思ったりした。でもそれも一時のことで、ひとりになると じわじわじわ…っと悲しい気持ちはいくらでも湧いてきた。家に帰って、いつもどおり「ただいまー」と声に出す。もちろん誰もいないことはちゃんと認識していてうっかりいつもどおり、などというわけではなかった。でも、お葬式から連れ帰ってきたくつしたのエネルギーが部屋の中にちゃんといてくれるのだと思い、小さな骨壷に姿を変えたくつしたに話しかけずにはいられなかった。ひとりでいると何も手につかず、かと言って じっとしていることもできず、そわそわと部屋のあちこちを歩き回った。まるが帰宅するまでの数時間を完全に持て余した。満タンのコップの水を揺らすみたいにことあるごとに涙がこぼれた。まるが帰ってきてからは、くつしたについて反省することを色々と話した。あれのせいで急に具合が悪くなったんじゃないか。いや、そんなことないよ。ああいうことがよくない影響を及ぼして知らず知らず病気にさせてたんじゃないか。そうかもしれない、だからもう、しない。そういうことは、もう、やめる。今まで自分を甘やかして、まあいいだろうと改善しなかった態度、例えば外でのストレスを家に持ち帰ってイライラと過ごす。機嫌が悪いときも、そういうネガティブなエネルギーを撒き散らしてしまうことなど。この先もたまにはそうなってしまうときもあるかもと少し頭をよぎったけれど、いや、もうやめると決めた。くーちゃん、もうしないよ。悲しいながらも生活はいつもどおり送れた。おなかも空いてしまうし、夜もちゃんと眠くなる。次の日もそんな感じで過ごしたけれど、この悲しい気持ちはいつまでも続くんだろうなと思えた。淡々と悲しい。ふとしたときに泣いてしまう。でもそれなりに普通に、気丈に振る舞えた。そんなに無理してるわけでもなく。二人の食事の時間。いつもなら、くつしたにまず食べさせて、そしてくつしたは大人の食卓をのぞきに来る。そういうにぎわいもなく思わず無言になってしまう。まるも私も ほぼ同時に同じ悲しみがこみ上げてきたと思う。なんか・・・さみしいなあまるが吐き出すように言った。合図のように私は瞬間、わーんと泣いた。二人でしばらく泣いていた。次の日、家に帰ってから、何となく昔の写真を見てみた。くつしたが小さいころのアルバム。16年前の秋はまだフィルムの使い捨てカメラで撮った写真。一眼レフで撮った写真もある。デジタルになってからみたいに闇雲に撮れないので限られた枚数で、そう頻繁に撮ったものでもない。しかもピントが甘かったりブレたり暗かったりするものもたくさん。でも、どれもそのときの情景そのままで思わず笑顔になる。もちろん涙も流しながら。くつしたと暮らし始めたころ、それはもうかわいくてかわいくてずっとずっとこの先もずっと生きていてほしいと思っていた。猫の寿命を考えると先に死んでしまうのはわかっている。でも、その中でも最大限に長生きして。20歳ぐらいまでは生きてよね。そのころはそう思っていた。最近、その考えを更新して、さらに10年追加した。世の中には30歳にもなる猫がいるらしい。よし、くーちゃんもそれを目指そう。いま16歳だから、あと15年ぐらいは一緒にいてね。くつしたにもそう言い聞かせて一方的かもしれないけど約束して、そして願いも宇宙に放ったのに。近ごろ、願ったことが叶うことが増えてきた実感があった。小さなことで単なる偶然かもしれなかったり、時間が経って忘れたころにそういえばというようなことだったりだけど、何かうまいこといくよね、ということが度々あった。でも、くーちゃんとあと15年いっしょに暮らすという願いは叶いようがないじゃない。今までの願いは時間がかかってでも叶ったりしたけど、時間をかけてこの先どうやって叶うっていうんだよ。なんでだよ・・・なんで・・・。泣きながらも、くつしたの写真をながめることは楽しかった。幼いくつしたは顔つきが今と少し違う。小さな顔に、きゅっと集まった小さなパーツ。目もつぶらで、耳が大きい。アルバムをめくって、少し大きくなると顔立ちも少し大人になってスッと整った感じになっている。顔もそのときどきで結構、変わるもんだよなー。あれ?そのとき、まだまとまらない閃きのような考えが私の中に現れた。まるが帰ってきて、また長い時間くつしたのことをあれこれと話した。お互いに思うこと、今日感じたこと、どうやって過ごしていたかなど。くつしたも一緒に会話に参加しているようにくつしたの骨壷の近くで話した。小さな骨壷は、幼いくつしたがうちに来たころの大きさと同じくらい。また小さいころに戻ったみたいだね。くーちゃんの魂がこの中にいると思えばこんな形になっても可愛いね。もう撫でることのできないくつしたの滑らかな毛のかわりに骨壷を包んでいる美しい布地を撫でた。どんな形でもくつしたはかわいい。それは本心だった。心からそう思えた。あ、そうだと思って、まだまとまりかけの宙に漂うイメージをたぐりよせながら言葉に変換して話し始めてみた。* * *最近な、いろいろ願い 叶ったりしてたやん?でも くーちゃんとずっと一緒にいる願いは叶わへんやん!時間がかかったとしてもどうやって叶うねん!って思ってん。でもな、写真見てて思ったんやけど、ちっさいくーちゃんって今と顔が違うやん?ちょっと育ったらまた変わったし、今はもっと変わって骨壷のくーちゃん。あ、違うか、骨か。とにかくな、姿はそのときどきで違うけどくーちゃんの魂みたいなんはずっといるやん。だからな、どうやって願い叶うんやろと思ったらな、また、形が変わっても一緒にいれるってことなんちゃうかなって。体は入れもんで、耐用年数がきちゃったからお返しすることになったけど、また違う入れもんに入って帰ってきてくれるんちゃうかなって・・・* * *言い終わるころには涙が溢れて、嗚咽に近かった。散らばっていたイメージがまとまって確信に近い感覚があった。「そうやん!」まるがハッとしたように同意した。全然 毛の色とか見た目がちがったり、それこそ猫じゃないかもしれん、犬かも 他の生き物かもしれんけど中身はくーちゃんできっと くーちゃんやってわかるはずやん。だから こっちのアンテナ磨いてちゃんとわかるようにしとかなな。わかるかなー。くーちゃんの方で くーちゃんだよって教えてくれるかな。ちゃんと見過ごさないようにせんとな。そんなようなことをお互いに口々に喋った。このときから 私たちは霧が晴れたように穏やかな気持ちになり、まだふと思い出すと悲しい記憶で涙がにじんだりしたけれどそれよりも希望を持てるようになった。「会えると思ったら楽しみやなー!」それまでに それぞれの課題をこなしていかないと。内面を整えたり、生活を改めたり。くーちゃんが戻ってきても前と一緒じゃ、また病気にさせてしまうかもしれないからちゃんと直しておかないと。ちゃんと暮らしていく。顔もゆるんで 笑いさえもこぼれてくる。「他の人が見たら、すごく薄情に見えるやろなー」たった二日間ほどで私たちのペットロスはあっけなく終了し、希望と充実感を持って毎日が送れるようになったのだった。