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テーマ:F1ニュース・レース(2364)
カテゴリ:フォーミュラ1
1988年 16戦15勝の圧倒的強さを見せたマクラーレン・ホンダ。 1989年にターボエンジンが全面禁止され、V10の自然吸気エンジンでも、マクラーレン・ホンダの快進撃は止まらなかった。16戦10勝と、前年と比べてしまえばいささか旗色が悪いが、その実績は間違いなく超一流だ。 ただ、二人のドライバーは最悪で、イモラでの紳士協定破りに チーム崩壊を恐れたロン・デニス(デニスはこの紳士協定を関知していなかった)を交えた翌週の三者会談で、セナは「紳士協定は1回目のスタートのみ」「協定はトサ・コーナー入り口のブレーキングポイントまでだ」と抗弁したが、デニスに促され、最後は渋々ながら非を認め謝罪、これにより両者は一旦和解した。 しかし、「和解時の話し合いの内容を口外しない」という紳士協定をプロストが破り、セナの不誠実さに対する非難を交えながら仏紙レキップの記者にリーク。2人の溝はいよいよ埋められないものとなって行く。それ以後、同じチームなのに 別チームのような雰囲気でグランプリを戦うことになる。 そして シーズン真っただ中のフランスGP前に、プロストはロン・デニスに何も相談せず、翌年フェラーリへ移籍すると発表。そのフランスGPで決勝レースでは一度もトップを譲らずプロストが完勝する。フェラーリの地元イタリアGPを前に正式発表し、そのレースでも優勝を飾る。 ホンダの記念すべき50勝目は、既にフェラーリドライバーとしてイタリアの観衆に熱烈歓迎されるプロストにより達成という結果になった。この際、表彰式の時に契約上チームの所有物である優勝トロフィーを地元のファンに投げ与えてしまい、デニスが不快感を示した。また、度重なるエンジン待遇差別発言に業を煮やしていたホンダの怒りも頂点に達し、プロストへのエンジン供給停止を通告してきた。後日プロストは、トロフィーをレプリカで「弁償」するとともに、ホンダにも謝罪した。ただその瞬間、“伝説のチーム”はバラバラになってしまった。 そしてセナ劣勢のまま日本GPへ。 そして世界が記憶するシケインの衝突に。最初の写真。 プロストはレース前にメディアに対して「セナに対してもうドアは開けない(譲らない)」と宣言しており、それを実行した形となった。 ただ1989年もタイトル奪取はできた。 1990年、1991年もダブルタイトルとなったが、実質には1989年日本GPでマクラーレン・ホンダの時代が終わったと言える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.02.13 23:36:06
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