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忙しく仕事に追われ
未だに忘れることすらできない彼女のことを想いながら ふと目を遣った先に、昔読んだ本が目に留まった 自分が一番好きで、一番感銘を受けた一節です ───世界は、「自分」と「自分以外の他者」で成り立っている。言い換えればそれは、いくら強烈で確実な「自分」を有していたところで、それを認識してくれる「自分以外の他者」がいなければ世界は成立し得ない、ということでもある。 例えば「自分は強い」ということを自分の中でいくら信じていたところで、そういう「強い私」を認識してくれる「自分以外の他者」がいなければ「強い私」は架空のものになる。「強い私」はどこにもいなくなってしまうのだ。 もっといえば、「自分以外の他者」の存在を無視するとき、ことば、あるいは感覚ですらその意味は無になる。「あのリンゴは赤い」という事実をいくら自分が認識していたとしても、その事実を伝達する対象となる他者がいなければ、赤いリンゴ自体がどこにも存在しないものになるのだ。 他者がいなければ自己も存在し得ない。つまり「私」という「自分」は、他者によって生かされているのである。 前に、なるべく誰かのためになりたい、誰かにとって役に立つ存在でいたい、というようなことを述べた。それは私にとっては、決して「誰か」という他者のためではない。それどころかそれは自分のためですらある。誰かのためになりたい、誰かの役に立ちたい、という思いは、「私」という「自分」を確立するため、「私」という「自分」を架空のものにしないため、「私」という「自分」をどこかでこの世界と繋ぎとめておくための、ほとんど利己的とさえ呼べるほどの希望なのである。 そういう思いを切ないくらいに抱えながら生きていくことが「自分らしく生きる」と呼ぶに足り得るものであるならば、もしかしたら私は自分らしく生きているのかも知れない、と思う。 私は死を怖れる。生に対する未練がある。たぶんそれは自分の生が無に帰するのが怖いせいだと思う。 そうならないようにするため、自分の存在を無に終わらせないようにするため、私は精一杯に他者を思い、他者を愛す。少なくともそうであるよう努める。 そうして、他者を思い他者を愛し、自分の思いを出来るだけたくさん他者に伝える、ということが、私にとっては「やらなければならないこと」なのだ。 私にとって「やらなければならないこと」は、すなわち「自分が『やらなければならない』と思うこと」であり、それはつまり誰でもなく私自身が「やりたいこと」なのだと思う。─── ・・・自分が目指すべき原点を、思い出させて貰えました 未だに、自分はこんなに出来ていない 自分は、生きているのではなく生かされているのだ 誰かが必要としているのかもしれない たった一人に出会えるのか、それはわからないけど もっと自分に厳しく、もっと強く 他者から、そして自分も認められる自分にならなければ・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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