ならばミーノ・レイターノ
ここまでくれば日本では余り顧みられなかったミーノ・レイターノの日本盤を総ざらいしてみましょう。 ミーノ・レイターノは1944年12月7日、レッジョ・カラブリアのフィウマーラ(長靴の先っちょ辺り)生。2009年1月27日ロンバルディア州アグラーテ・ブリアンツォ(ミラノ近郊)65歳で没。 1965年のカストリカーロ(サンレモへの新人登竜門のフェスティバル)に参加したが、本選に残れなかった。幸運にもメジャーのRICORDIに入ることができ、翌66年のサンレモ音楽祭のコンピレーションに"マイ・マイ・マイ・バレンティーナ(MAI, MAI, MAI, VALENTINA)"[1]で収録される。 1967年サンレモ音楽祭にL.バティスティ(LUCIO BATTISTI)とモゴール(MOGOL)作の"世界を信じたい(NON PREGO PER ME)"<1>をイギリスのホリーズ(THE HOLLIES)<2>をパートナにして歌ったが入賞はできなかった。国内盤LP「カンツォーネ・スター大名鑑」にはサンレモ音楽祭のコンピ用に録音されたと思われる"愛を囁くとき(QUANDO DICO CHE TI AMO)"[2]が収められている。これはかなり珍しいと思っている。 その初夏カンタジーロのジローネB(若手部門)に"女をさがす時(QUANDO CERCO UNA DONNA)"で参加。その年後半にアリストン・レコードへ移籍する。 1968年初夏、カンタジーロのジローネB(若手部門)に"愛した心(AVEVO UN CUORE)"[3]を歌い新人部門第2位、ビッグ・ヒットとなりスターの階段を昇りだす。 1969年サンレモ音楽祭に「しのび泣く今宵(MEGLIO UNA SERA (PIANGERE DA SOLI))」[4]<3>をクラウディオ・ビルラのパートナー<4>として歌うが入賞はできなかった。初夏に行われるカンタジーロではジローネA(スター部門)に"ダラダン(DARADAN)"[5]を歌い第9位になる。 夏のディスク・フェスティヴァルでは、1970年に"君の扉を叩くとき(CENTO COLPI ALLA TUA PORTA)"[6]で入賞。この年のカンツォニッシマを機にアリストンからドリウムに移籍した。カンツォニッシマでは69年のヒット曲で生まれ故郷を称えた"フィウマラの人々(GENTE DI FIUMARA')"[7]を歌い第3位となった。 1971年の夏のディスク・フェスティヴァルで"桑の実のなる頃(ERA IL TEMPO DELLE MORE)"[8]でついに優勝の栄冠を手にした。72年の同フェスティヴァルには"今夜は笑わずに(STASERA NON SI RIDE E NON SI BALLA)"入賞。73年"風への三つの言葉(TRE PAROLE AL VENTO)"が第3位。 1974年久々にサンレモ音楽祭で"恋人たち(INNAMORATI)"を歌い、参加曲に終わったが、このブログにも書いた通り、シルヴィー・バルタンがカヴァーし、異国ニッポンで作者不詳のシャンソンとして歌い継がれていった。同年の夏のディスク・フェスティヴァルで歌った"AMORE A VISO APERTO"も参加曲で終わる。 1975年夏のディスクでは前年の人気低落を巻き返すかのように"君の望むなら(E SE TI VOGLIO)"で第3位となる。しかし1988年サンレモ音楽祭で"イタリア(ITALIA)"<5>を歌い第6位になり、リバイバルするまで10数年間の停滞期に入る。その後サンレモ音楽祭には90年にはアルゼンチンのヴァレリア・リンチをパートナーニ"VORREI" <6>を歌い第16位。92年"MA TI SEI CHIESTO MAI"が参加曲どまり。10年後2002年に最後の参加となる"LA MIA CANZONE"では第18位であった。 ミーノ・レイターノはソングライターとして1968年カンタジーロ・Aでクラウディオ・ビルラが歌った"風が鐘を鳴らす時(QUANDO IL VENTO SUONA LE CAMPANE)"、69年カンタジーロ・B第2位パオロ・メンゴリの"夜の涙(PERCHE' L'HAI FATTO)"、ジョヴァンナの70年カンタジーロ・B第7位の"風にそよぐ葦(CANNE AL VENTO)"、同年オルネラ・ヴァノーニのヒット曲"なやみ(UNA RAGIONE DI PIU')"などを書いている。 またナナ・ムスクーリが1972年に出した"バラ色の日々(FOUR AND TWENTY HOURS)"原題は(PIU' IMPORTANTE DELL'AMORE)、ゼッキーノ・ドーロの"いたずら目覚し時計(LA SVEGLIA BIRICHINA)"や"チャオ・アミ-コ(CIAO AMICO)"でもソングライターとして働いていた。意外と知られていないのが石井明美がヒットさせたフィンツィー・コンティーニの"チャ・チャ・チャ(CHA CHA CHA)"。そのクレジットにM.レイターノがのっているのをお気づきでしたでしょうか? ここまで書いて私自身でもわかって来たのですが、なぜミーノ・レイターノが日本で余り顧みられなかったのか。 1971年の"桑の実のなる頃"までポイントとなる曲は日本でも何らかの形で発売されていました。 カンタジーロや夏のディスクで活躍したにもかかわらず、日本で知名度の高いサンレモ音楽祭の実績は芳しいものではなかったからです。皮肉なことに彼の前半期で、久々に出場し参加曲に終わった"恋人たち"が、日本で作者不詳の『何故私に愛を語らない』として歌い継がれてたのです。 [1] SH- 231(1966. 5. SEVEN SEAS キング)「第16回サンレモ音楽祭」[2] SR- 313~5(1969.10.20 SEVEN SEAS キング)「カンツォーネ・スター大名鑑」[3][5] SR- 613~4(1971. 7.10 SEVEN SEAS キング)「カンタジ-ロのすべて」[3] SR- 817(1973. 4. SEVEN SEAS キング)「若草の朝/カンツォニッシマ1972-1973」[4] PS- 125(1969. 4. SEVEN SEAS キング)「第19回サン・レモ音楽祭第3集」[4] GW- 17~8(1969. 5.20 SEVEN SEAS キング)「第19回サンレモ音楽祭」[4] GW- 239~40(1973. 3. SEVEN SEAS キング)「ラヴ・ミー・トゥナイト/くたばれサンレモ」[4] GXF- 81~90(1979. 2. 5 SEVEN SEAS キング)「サン・レモ音楽祭大全集」[6] SR- 611~2(1971. 6.10 SEVEN SEAS キング)「夏のディスク・フェスティヴァルのすべて」[7] SR- 609~10(1971. 5.10 SEVEN SEAS キング)「カンツォニッシマのすべて第2集」[8] SJET-8371(1972. 7. GLOBEビクタ-音楽産業)「ミノ・レイタ-ノ登場!」 桑の実のなる頃 (ERA IL TEMPO DELLE MORE) 男と鞄 (L'UOMO E LA VALIGIA) 明日への橋 (E SI'...(VADO AVANTI COSI)) 汚れなき愛 (APRI LE TUE BRACCITA E ABBRACCIA IL MONDO) タラ・ポキの伝説 (LA LEGGENDA DI TARA POKI') 愛の説得 (MA PERCHE') さらば私の人生 (CIAO, VITA MIA!) 愛と苦しみ (UNA FERITA IN FONDO AL CUORE) 風とカンナ (CANNE AL VENTO) 私の心が唄うとき (CANTASTORIE) この美しき真実 (LA PURA VERITA) アンネの日記 (IL DIARIO DI ANNA FRANK) [9] KIL-1002(MED・BAR- 002)(CD 2006. MEDIANEキング・インタ-ナショナル「バー・ローマ」※ 非公式・非売品 SILBT-4377^8 (盤面番号)「カンツォニッシマ・トトカルチョ」 キング・レコードがカンツォーネ・ファン・クラブと業界関係者にプレミアム・グッズを人気投票で渡す目的で制作した盤です。ミーノ・レイターノの「さらば私の人生」がその中に入っています。 <1> SRL-10・448(1967. 1. RICORDI RICORDI,Italy) c/w "Io farò la mia parte" <2> QMSP-16402 (1967. 1. PARLOPHON V.C.M.,Italy) c/w "私を信じて(Devi avere fiducia in me)" <3> AR-0311 (1969. 2. ARISTON ARISTON,Italy) c/w "Non aver nessuno" <4> (1969. 2. CETRA FONIT-CETRA,Italy) c/w "Ti amo" <5> YNP-00995 (1988. 2. YEP YEP,Italy) c/w "イタリア(Italia) Instrumental" <6> MFN-07 (1990. 3. 103 Ed. Mus. NUOVA FONIT CETRA,Italy) c/w "Vivere"