サンレモの歌手たち 11 マリーサ・コロンベール、 アントニオ・バズルト
第5回サンレモン音楽祭に出場した歌手で日本ではあまり知られていませんが、イタリアでは中堅クラスの歌手達です。 ★マリーサ・コロンベール(Marisa Colomber)本名マリーサ・コロンバーラ(Marisa Colombara)1928年 10月5日フェルラーラ市境に近いボローニャのガルリエーラ生、1950年代に人気があった歌手で女優。 デビューはエミリア=ロマーニャ州のダンス・クラブで父親と一緒に初めてラジオ・トリエステのマイクの前に立った時でした。その後パリ祭とジェノヴァのカラヴェッラ・ドーロ、後で知ったのですが洗練された官能なイヴェントにデビューし、成功を収めました。1956年のサンレモ音楽祭にだた1度、1曲だけユーラ・デ・パルマのパートナーとして歌った、"影"が8位入賞をしました。その後しばらく歌手として人気を保ちました。1963年フェデリコ・フェリーニ監督の"フェリーニの8・2/1"でマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)演じるグイド・アンセルミ(Guido Anselmi)の叔母役で映画に出演、65年(日本未公開)マルチェロ・チョルチョリーニ(Marcello Ciorciolini)脚本・監督の「はばかりながら(仮 CON RISPETTO PARLANDO)」、同年のTV番組「スカラムーシュ(仮 SCARAMOUCHE)」にも出ています。このTVシリーズはドメニコ・モドゥーニョが主役スカラ・ムーシュを演じ、毎回短編小説のようにエピソードをつないていく番組で、マリーサ・コロンベールもあるエピソードに出演しています。デビュー曲は分かりませんが一番古いSPは1954年のDC-6140 (1954年10月22日 CETRA - CETRA) FOCU VIVO が確認できています。所属レコード会社で確認できるのは1954~58年チェトラ(CETRA)で、ネット上で聞ける曲は、新年おめでとう(BUON ANNO... BUONA FORTUNA)と苺と小さな帽子(FRAGOLE E CAPPELLINI) です。 私のブログ「サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO) 8」第6回データの顔写真に使ったLPジャケットの画像は復刻LP盤PL-448 (1980年 CETRA - FONIT CETRA) I GRANDE SUCCESSI MARISA COLOMBER (収録曲不明) 今回書くのに資料と顔写真用のジャケット画像を探していたところ、意外や近くの大阪梅田のジャズ・クラシック・アナログ専門店ストレイト・レコーズのネット・ショップにサンレモ入賞曲"影"の入ったイタリアの25cmLP盤が出ており、入手できましたの紹介いたします。e Bayでも2008年春に一度でているレア盤のようです。神様のお引合せとしか思えない幸運でした。盤はノイズの出る傷を丁寧に一つ一つツブシてあり、非常に丁寧な仕事をした跡が見取れました。 LPA- 68 (1956年CETRA - CETRA) MARISA COLOMBER LPA- 68PROMESSE DI SEMPRE E DI MAI (V.MASCHERONI - G.C.TESTONI)L'OMBRA (影) (W.COLI) 1956年サンレモ音楽祭第8位ORCHIDEA SELVAGGIA (GIORDANO)NON MI CHIEDERE PERDONO (W.COLI)LE TRE VIOLETTE (N.RASTELLI - A.FRAGNA) con PIERANGELI e TRIO AURORALA MIA CROCE (G.BECAUD - U.BERTINI)FOCU VIVU (C.CONCINA - V.D'ACQUISTO)COSI' COSI' COSI' (AHLERT - G.C.TESTONI) con TRIO AURORA ★アントニオ・バズルト(Antonio Basurto)1917年8月28日イタリアの最南部、長靴の踵の部分に当たるレッチェ生、2007年12月20日ローマ没。 ナポリで勉強し、国営放送EIARの新人コンテストに優勝した1939 年までスカルラッティ合唱を入っていました。彼はサンレモ音楽祭第1回優勝曲"花をありがとう"を作ったサヴェリオ・セラチーニ(SAVERIO SERACINI)の楽団に所属し、その年の7月27日に最新のウンベルト ・ ベルティーニの曲"最後の枯葉(ULTIME FOGLIE)"と"村の娘"で知られているとエルド・ディ・ラッザロの"ラ・ピチニーナ(LA PICCININA)"でデビューします。彼の少し鼻にかかっ力強い声はすぐに彼だとわかります。第二次世界大戦中はドイツの捕虜となり連合国軍の解放まで抑留されていました。戦後、レナート・ラシェル(Renato Rascel)、アルド・ファブリーツィ(Aldo Fabrizi)やリディア・ ジョンソン(Lydia Johnson)たちとレビュー劇場で働き、1948 年にアルゼンチンで海外デビューし、ラバリアーティ・ナポレターノ(Rabagliati napoletano)のあだ名で知られています。ナポリの歌手として1951年トトの作った"悪い女(MALAFEMMENA)"を最初に歌いました。この曲は同じ年にマリオ・アッバーテ(MARIO ABBATE)がナポリのピエティグロッダ歌祭で歌い、ジャコモ・ロンディネッラ(GIACOMO RONDINELLA)がヒットさせました。過去4回ナポリ音楽祭に参加しています。52年第1回"井戸端会議の女達('E CUMMARELLE)"をジーノ・ラティルラを"勇気じゃない....恋だ('E CCAMPANE NAPULITANE)"をアキレ・トリアーニをパートナーとして入賞。たぶんこの後チェトラからヴィス・ラディオに移籍したと思われます。54年第2回は"3曲歌いましたが入賞できませんでした。56年第4回 "太陽の光を(MANNAME NU RAGGIO 'E SOLE)" で入賞、もう1曲は入賞しませんでした。58年第6回は "怒りのセレナード(SERENATA ARRAGGIATA)" は入賞、もう1曲"O' PALLUNCINO"は参加曲に終わりました。1957年彼はイスキア音楽祭で"LA CANZONE NA CASA A ISCHIA"で優勝しました。 その後マイナーのIPM(Italmusica Pigini Milano)に移籍し、ローマのほぼ東100kmの山中にあるアブルッツォ(ABRUZZO)地方の民謡を歌っています。なぜナポリからアブルッツォ地方の民謡になったのかよく分かりませんが、これが彼の最後の歌手人生となってしまいます。 偶然この秋、手に入れたコあンピレーションにバズルトがIPMにいたころの曲が入っていました。 LP・IR-1030 (1972年 ITAL - ITAL RECORD,Canada) ABRUZZO/FORTE E GENTILE (原盤1964年4月29日 LIP-301 IPM - IPM, Italy) LP・IR-1030 1.ZI' NICOLA2.LA PIGNATELLE3.LA BALLATA DELLA FISA4.LA PASTURELLA DELLA MAJELLA5.MA CHI TE LE FAFFA' PIJA' NU VICCHIE?6.COCCIA PELATA TWIST7.CHA CHA CHA ABRUZZESE8.LA FIJA ME9.L'UMBRIACONE10.SALTARELLO MARINARO11.STORNELLI ABRUZZESI12.LA LATTERIA13.NE' ME TUCCA'... TUCCAME14.PISCATORE... PISCATORE 1,4,5,7,12アントニオ・バズルト (BASURTO,ANTONIO (vm)); 2,8 マリーザ・ペンナ (PENNA,MARISA (vf)); 3, 9 チェザーレ・デ・チェザーリ (DE CESARI,CESARE (vm)); 6,10ニーノ・ラナッリ (RANALLI,NINO (vm)); 11,14マリア・パッポネッティ (PAPPONETTI,MARIA (vf)) 歌手のクレジットはなく、Web上で見付けたディスコグラフィーから推測しています。 バズルツトがまだナポリターナ歌手として未練があったとこりにつけ込まれたのか、1961年のナポリ音楽祭に150万リラを出せばオーガナーザーの一人になれ、出場できるという買収疑惑事件に巻き込まれました。彼はナポリ音楽祭に出場することなく、自ら歌手生活から引退する道を選びました。 アントニオ・バズルトの国内盤はありません。 次回はユーラ・デ・パルマ(Jula De Palma)の紹介です。