サンレモの歌手たち 649 フィオレッラ・マンノイア 1
★フィオレッラ・マンノイア(vf) Fiorella Mannoia1954年4月4日 (2月生まれ説もあり)、ローマ生、歌手。 活動期間:1968年 – 現在所属レコード会社:Carisch, It, RCA Italiana, Dischi Ricordi, CGD, Ariston, DDD, Sony Music, Oyàサンレモ音楽祭出場5回:1981年入賞、84年14位、87年8位、88年10位、2017年第2位、オフィシャルサイト: フィオレッラ・マンノイアはシチリアの出稼ぎだった父ルイジ・マンノイア(Luigi Mannoia)とローマの北130kmにあるウンブリア州(州都はペルージャ)出身の母の娘として1954年にローマで生まれました。 芸能活動の開始は、68年ダニエレ・ダンツァ(Daniele D'Anza)監督のTVミニ・シリーズ・マカロニ・ウェスタン番組「”NON CANTARE, SPARA」で歌手、女優のルチア・マンヌッチ(LUCIA MANNUCCI)のスタント・ウーマン(身代わり代役)として父や兄マウリツィオ(MAURIZIO)、姉パトリツィア(PATRIZIA)と一緒に働きだしでした。 同年10月にカストロ・カーロ新人コンテストに出場します。歌った曲は68年サンレモ音楽祭でドン・バッキー(DON BACKY)が歌う予定で作った”カンツォーネ(CANZONE)”親分アドリアーノ・チェレンターノ(ADRIANO CELENTANO)が横取りし、出したシング盤B面曲” ライオンに向かう若者(UN BIMBO SUL LEONE)”でした。 LL- 2155・NC(1968. 5.25 COLUMBIA INTERNATIONAL - 日本コロムビア)“カンツォーネ(CANZONE)/ライオンに向かう若者(UN BIMBO SUL LEONE)” LL- 2155・NC カストロ・カーロ新人コンテストでは優勝できませんでしたが、名門カリッシュ・レコード(68年当時は老舗ドイツ系のオデオンやパーラフォンの販売権をEMIに取られ、没落会社でしたが)と2年契約ができ、レコード歌手デビューすることが出来ました。 わずか14歳の少女歌手フィオレッラとして” Ho Saputo Che Partivi/Le Ciliege”でスタートを切りました。 VCA-26201 (1968年 CARISCH – CARISCH,Italy) Ho Saputo Che Partivi/Le Ciliege VCA-26201 VCA-26205 VCA-26205 (1969年 CARISCH – CARISCH,Italy) Gente Qua, Gente Là/Occhi Negli Occhi 翌69年夏のディスク・フェスティヴァル(UN DISCO PER L'ESTATE)に”Gente Qua, Gente Là”で出場しましたが、本選には進めませんでした。 同年多くの新人歌手のデビューが辿る道筋でしたが、2年契約3枚目のシングル盤”Mi Piace Quel Ragazzo Lì”を出して終了となりました。 VCA-26208 (1969年 CARISCH – CARISCH,Italy) Mi Piace Quel Ragazzo Lì/Occhi Negli OcchiVCA-26208 ZT- 7022 ZT- 7022 (1971年11月 IT –RCA ITLIANA) Ore Sei/Mi Gira La Testa* (以降[*]印はメンモ・フォレシが作曲した曲) 70年カンタウトゥーリ、作曲家、レコード・プロデューサーのメンモ・フォレシ(Memmo Foresi)と巡り合い、ヴィンチェンツォ・ミコッチ(Vincenzo Micocci)がRCAイタリアーナの為に作った新人育成レーベル、イト(It)からフォレシのプロディースで“Ore Sei”/“Mi Gira La Testa”のシングル盤を出しました。この頃からフィオレッラ・マンノイアとメンモ・フォレシの恋愛関係は始まっていたと思われます。 彼女は一方70年代初頭、いくつかのマカロニ・ウェスタン映画に端役ですが出演をしていました。何れも日本での公開はなかった映画と思われますが72年「UNA COLT IN MANO AL DIAVOLO」、73年“E IL TERZO GIORNO ARRIVO’ IL CORVOと“SEI BOUNTY KILLERS PER UNA STRAGE”でした。 72年フォレシは彼女を前面に立てたマンノイア・フォレシ&カンパニーとしてRCAイタリアーナから同名のファースト・アルバムでメジャー・デビューをさせます。彼女への愛の証であったと思われます。 PSL-10559 (1972年9月RCA –RCA ITLIANA) Mannoia Foresi & co. (come Mannoia Foresi & co. (Fiorella Mannoia, Memmo Foresi))1.Prologo (Ma Quale Sentimento*)2.Labirinto**3.Volo*4.La Caduta*5.Il Filo Di Arianna*6.Povertà D'Amore*7.Che Cos'È*8.Libertà*9.Non È Vero*10.Se Mi Davi Retta*PSL-10559 PM-3680 PM-3680 (1972年10月RCA –RCA ITLIANA) Ma Quale Sentimento* (Prologo)/Che Cos'È* ファースト・アルバムから”Ma Quale Sentimento* (Prologo)”をシングル・カットしました。 74年シングル盤を”Ninna nanna”/”Rose”を出しましたが、歌詞の内容が検閲の対象となり変更して発売となります。 TPBO-1084 (1974年RCA –RCA ITLIANA) Ninna Nanna*/Rose* TPBO-1084 この後、76年にフィオレッラ・マンノイアとメンモ・フォレシもリコルディに移籍しました。 SRL-10・818 (1976年RICORDI – DISCHI RICORDI) Piccolo/Che sete ho*SRL-10・818 SRL-10・819 SRL-10・819 (1976年RICORDI – DISCHI RICORDI) Saremo Di Più/Camminando [Memmo Foresi] リコルディに移籍したメンモ・フォレシの出したシングル盤のレコード番号はフィオレッラ・マンノイアの次の番号で、二人がセットで移籍したとしか思えません。フォレシはマンノイアへの楽曲の提供とプロディースが続きます。ただリコルディではセクシー歌手としてセールス・プロモーションを展開し、彼女にとっては相当の軋轢となっていったようです。 77年のシングル盤両面の作曲家のクレジットがシッラ・フォレシ(Silla Foresi)となっており、この名前はオルネラ・ヴァノーニ(ORNELLA VANONI)のアルバム「ヴァノーニ讃歌(PIU'」に収録されている”闇に消えゆく愛(TU CHI SEI? (CHE COSA VUOI DA ME)”にしか見ることが出来ず、メンモ・フォレシの変名かも知れないと思っています。 SRL-10・842 (1977年RICORDI – DISCHI RICORDI) Tu Amore Mio / Viva SRL-10・842 SRL-10・881 SRL-10・881 (1978年RICORDI – DISCHI RICORDI) Scaldami/Cover Girl* 78年フォレシのプロデュース(B面曲も彼の作曲)で“Scaldami”これも不発で終わりました。 2年後CGDに移籍します。CGDでの最初の仕事は今までにした事のない、他の歌手のアルバム制作に参加し、デュエットすることでした。仕事の相手はピエランジェロ・ベルトーリ(Pierangelo Bertoli)です。70年代前半から出てきた(現代の吟遊詩人的)フォーク系カンタウトゥーリでしかも車椅子歌手でもありました。 76年CGDでメジャー・デビューしてアルバム制作したのですが、会社の方針に沿わず、自分の方針に固執して軋轢を生じていました。CGDとしても扱いに困っていたのですが、歌手を引退したカテリーナ・カセルリ(CATERINA CASELLI)が起ち上げたプログレッシブ・レーベルのアスコルト(Ascolto)に彼を委ねて4作目のアルバム制作でした。 軋轢を抱えた二人のデュエットは”漁師(PESCATORE)”のみでしたが、会心の出来でベルトーリ、マンノイア双方の評判をあげる曲となりました。 ASC-20233 (1980年ASCOLTO – CGD MESSAGERIE MUSICALI) PIERANGELO BERTOLI/CERTI MOMENTI1.CENT'ANNI DI MENO2.CANZONCINA3.PESCATORE (漁師)4.FER L'AMAUR5.I POETI6.IN FONDO7.CERTI MOMENTI8.RIFLUSSO9.E POI 3フィオレッラ・マンノイア (FIORELLA MANNOIA) と ピエランジェロ・ベルト-リ (PIERANGELO BERTOLI)ASC-20233 CGD-10318 CGD-10318 (1981年2月CGD – CGD MESSAGERIE MUSICALI) Caffè Nero Bollente (沸いたブラック・コーヒー)/Meno Male Che Il Temporale Sta Passando* こうしてフィオラッラ・マンノイアは81年サンレモ音楽祭の出場権を得て、かなり大胆で挑発的な歌詞が特徴の曲である“Caffè Nero Bollente (沸いたブラック・コーヒー)”で初出場しました。結果は入賞(順位なし)で、年間ヒット・ランクには入りませんでしたが、週間ランキング最高位40位(在位10週間)とマンノイア初のヒット曲となりました。 81年2枚目のシングル”E Muoviti Un Po'”はファスティヴァル・バール出場曲です。彼女のジャケット写真は笑顔で写っていることがないにですが、この頃はまだ葛藤を抱えていたのか、非常に厳しい表情で写っています。 CGD-10340 (1981年CGD – CGD MESSAGERIE MUSICALI) E Muoviti Un Po'/E Muoviti Un Po'CGD-10340 CGD-10475 CGD-10475 (1983年CGD – CGD MESSAGERIE MUSICALI) Il Posto Delle Viole*/Torneranno Gli Angeli 83年メンモ・フォレシが作曲した“Il Posto Delle Viole”をA面にしたシングル盤をマリオ・ラヴェッツィ(Mario Lavezzi))がプロディースして発売されました。 この曲を収録したマンノイア2枚目(ソロ歌手としては初)のアルバムも出されました。メンモ・フォレシが作った曲が3曲、プロディースしたマリオ・ラヴェッツィの曲が4曲と言う割合でした。フォレシがマンノイアに曲を提供したのはこれが最後となりました。 CGD-20357 (1983年 CGD - CGD MESSAGERIE MUSICALI) Fiorella Mannoia5054197104404 (2021年Atlantic – WARNER MUSIC ITALY) Fiorella Mannoia1.Torneranno Gli Angeli2.Non Si Possono Correre Rischi*3.Ma Sarà Vero4.L'Altra Faccia Della Luna5.Dimmi Di No*6.Il Posto Delle Viole*7.Bella Giovenitù8.Canzone Leggerissima9.Atlantide Non Vedrò10.Canto ControCGD-20357 5054197104404 フィオレッラ・マンノイアは84年サンレモ音楽祭出場を機に、レコード会社をアリストンに移籍し、プロディーサーもマリオ・ラヴェッツィに変更します。 メンモ・フォレシとの恋愛関係も80年代後半に入る頃には終焉を迎え、フォレシは音楽業界から引退します。 フィオレッラ・マンノイアは84年サンレモ音楽祭出場曲“愛はあなたのために(Come Si Cambia)”が14位入賞ながら、彼女が『歌うことが私の仕事になっていることを実感させてくれた作品でした。そして何よりも、私の使命は感情の糸に触れることであることを理解しました』と発言するように、より一層スケールの大きな歌手に成長していきます。 フィオレッラ・マンノイアの国内盤DQCP-3556~60 (2019年5.月15日) 5CD Box 小さな村の物語イタリア音楽選集~イタリアン・ポップスとカンツォ-ネ100曲/逢いびき~美しき1日のために (LA VITA DEI PIOLI ORGHI D'ITALIA)1-19.女の子が決して言わないこと (女たちの時代) (QUELLO CHE LE DONNE NON DICONO)3-16. 漁師 (IL PESCATORE) DQCP-3556~60 フィオレッラ・マンノイア2は1984年サンレモ音楽祭の後に続きます