ある出来事が起こったとき、
何故そうなったのか…を考えるけれど、
多くの場合、過去(済んだことの中)に答えを求める気がする。
しかし、それに対して、明らかな答えが出ることはない。
なぜって、それは・・・、
多くの出来事は、様々な要素が絡まりあい、
ひしめき合って成り立っているから。
だから・・・済んだことを頭の中で反復しても、そこに答えを求めても、
原因と思しき部分(ある一部を)を切り出してそこを
自分なりに原因として解釈してしまうのではないかと思う。
けれど、それはあくまでも断片的なものでしかない。
全体のごく一部を切り取った部分でしかないから。
そして、自分を正当化しつつ、自分以外の人にも原因を探しつつ、
そうする自分に対して、同時に自己否定も感じつつ。
人は誰しも誰かのせいにしてしまうことを
“良し”とはしないものではないか。
けれど、結果が望ましいものでなければ、
やむを得なく他者にも原因を求める。
そして、少しずつ少しずつ・・・、
自分の行為を正当化していくのかもしれない。
「仕方なかった・・」こととして。
そこには、望ましい結果以外は、
結果として認めない自分がいるからのように思う。
どんな出来事も、結果も、必要があって起っているのだとすると、
その出来事から学ぶことは常に存在するのではないだろうか。
その結果が、望ましいものであれ、そうでないものであれ。
不満や不平は悪いものではなく、
※不平・不満は言うべきではないとの思い込みもあるものの。
その感情が進歩へと導いてきたのではなかっただろうか。
「もっと良くしたい!」との想いがあったからこそ。
だとすると、済んだ時点からドンドンと過去になっていく出来事に
答えを求めるよりも、いまの自分に向き合い、
今の感覚を探り、自分の本質に触れていくことこそが
起こった出来事から学ぶということではないかと思う。
そして、わたしはその渦中に今いると思う。