昨日の朝の電話
スタッフのご親族に不幸があり、「欠勤」の連絡だった。
まだ20代の若い方が亡くなったとか。
詳しい事情はわからないけれど、ご親族の哀しみは察しても余りある。
「死は残されたものにのみ意味がある」と聞いたことがある。
その言葉の意味を私なりに考えてみたことがある。
それは、逝くものは、いくら若くとも、幼くとも、
今生の人生をまっとうして逝くということなんだろう。
いくら若くとも、幼くとも、何かの直前であれ、何かの直後であれ。
なので、哀しい出来事ではあるけれど、決して哀しい人ではない。
もう逢えない、聞けない、触れ合えないのが淋しく哀しいのだ。
残されたものの思いが哀しいのだ。
先に旅立った彼が悲しいのではなく、残された者が哀しいのだ。
そこを一緒にしてしまうと哀しみは中々癒えない。
わたしがそうだった。
父を亡くした後の数年間、幾度父を思い出して涙したことだろうか。
その度にわたしの心の中では、可哀想な父になっていた。
志は半ばで逝った無念の人になっていた。
けれど、それは私がそう思い込んだだけのこと。
増して娘の私がそう言うんだから、他人さんは同意するだろうし。
当然だけど、反論する意味もないし。
意識していないものの、画して父は「志半ばで逝った無念の人」になってしまっていたのだ。
そのことに気づくのに随分の時間を要した。
可哀想なのは父ではなく、父に頼りきっていたわたしだったのだと。
若きとて末をながきと思うなよ、無情の風は時を嫌わず
ご冥福を心よりお祈りいたします。