谷に咲く鎮魂の桜 (満池谷ニテコ池・名次町・奥畑)
桜シリーズ。今回は「火垂るの墓」の舞台となったニテコ池周辺。ニテコ池の西岸、名次町の邸宅の桜名次町は「日銀大阪支店長舎宅」や「名次庵(松下グループの会長邸)」など、市街地にありながら、敷地千坪を超える豪邸が悠々と居並ぶ超高級住宅地。濃紺ブレザーの私服風ガードマンが四六時中、さりげなく辻々に立って警戒している。ニテコ池(中池)と取水塔実にユニークなデザインの取水塔。(この取水塔は、アニメーション映画「火垂るの墓」にも登場したらしい。)対岸に見えるのは、廣田神社の森と見まがいそうだが、豪邸街の森林だ。ニテコ池は、昭和11年(1936)完成し、阪神大震災で被災。平成8年(1996)に復元された。上池、中池、下池の3つに仕切られ、階段式に造成された人口貯水池で、東西およそ100m、南北およそ400mと小さいが、西宮市の水がめのひとつだ。水は、夙川源流の剣谷川、水分谷川などから流入している。上(ニ)・中(テ)・下(コ)池それぞれに取水塔があるが、阪神大震災の後、この中池の取水塔以外は新しく付け替えられ、デザインが変わってしまった。さて、西宮神社(戎神社)の土塀の土はこの池から運び出されたという。そのときの「ネッテコイ、ネッテコイ」との掛け声から「ニテコ池」と名付けられたといわれている。(明治末期には「ネテトテコイ(練って取ってこい)池」と呼ばれていたらしい。)驚くことに、偶然にも?「ニテコ」はアイヌ語で「森林の水溜り」の意味でもある。(「ニタイ(森林)」+「コツ(水溜り)」で「ニテコ」)名次神社現在は廣田神社の境外摂社(枝宮)だ。平安時代中期に編纂された延喜式神名帳に武庫郡内四社として記載されている。ニテコ池西岸の丘、名次山にある。名次山は万葉集にも詠まれた名勝地。「 吾妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ 」高市連黒人 (たけちのむらじくろひと)満池谷の土手の桜(ニテコ池南端の土手。)「火垂るの墓」の原作者、野坂昭如が少年時代に幼い妹と避難した横穴式防空壕はこの土手に掘られていたのかもしれない。昭和20年6月5日、神戸の東半分は大型爆撃機B29 (481機)による空襲を受け焼失した。※死者3,184名。負傷者5,824名。全焼建物55,368戸、罹災者213,033名。この空襲により、神戸旧市街のほぼ全域が焦土と化した。※同年3月(B29・308機)と5月(B29・92機)の大空襲で市の西半分は既に壊滅していた。(神戸の空襲:128回、死者8,841名、負傷18,404名、焼失128,171戸、罹災者470,820名。)当時14歳の野坂少年は、空襲で養父と養母、祖母を失い、妹を栄養失調で亡くしている。「火垂るの墓」は、彼の実体験をもとに創作された。「お家かえりたいわあ、小母さんとこもういやや」「お家焼けてしもたもん、あれへん」「あんなあ、ここお家にしようか。この横穴やったら誰もけえへんし、節子と二人だけで好きにできるよ」池の向こう、右から数本目の桜の木の下に、阪神淡路震災記念碑が見える。西宮市内の犠牲者1146人のうち1083人の名前が刻まれ、震災写真の陶板に囲まれている。その奥には戦災記念塔があるが、満開の桜に隠れている。正面中央、二つの蒲鉾屋根の大きな建物は生花店。その左には広大な市立満池谷墓地が広がっていて、多くの戦没者や被災者も眠っている。震災記念碑公園(ニテコ池東岸の北端)「何しとんねん」「蛍のお墓つくってんねん。」うつむいたまま、お母ちゃんもお墓に入ってんやろ、こたえかねていると、「うち、小母ちゃんに聞いてん、お母ちゃんもう死にはって、お墓の中にいてるねんて」ニテコ池の北、越水浄水場側からのアプローチの桜。桜の右奥は、満池谷墓地だ。丘を超え、さらに延々と続く石碑の林。『八月五日夜には西宮中心部が焼かれ、さすがにのんびりした満池谷の連中も震え上がった』『節子は下痢がとまらず、右半身すき通るよう色白で、左は疥癬にただれきり、海水で洗えば、しみて泣くだけ。夙川駅前の医者を訪れても、「滋養をつけることですな」申しわけに聴診器胸にあて、薬もよこさず、』『抱きかかえて、歩くたび首がぐらぐら動き、どこへ行くにも放さぬ人形すら、もう抱く力なく』『髪をまとめると、あらためて眼窩の窪みが目立つ。節子は何を思ったか、手近かの石ころ二つ拾い、「兄ちゃん、どうぞ」「なんや」「御飯や、お茶もほしい?」急に元気よく「それからおからたいたんもあげましょうね」ままごとのように、土くれ石を並べ、「どうぞ、お上がり、食べへんのん?」八月二十二日昼、貯水池で泳いで壕へ戻ると、節子は死んでいた。骨と皮にやせ衰え、その前二、三日は声も立てず、大きな蟻が顔にはいのぼっても払いおとすこともせず、ただ夜の、蛍の光を眼でおうらしく、「上いった下いったあっとまった」低くつぶやき、・・・』