続きです。
『
このページには、詩だけではなくて、ていねいな解説も載せられています。フランスの歴史や当時の情景を知らないとピンとこないかもしれない詩句まで一つ一つ解説しているので、訳してみることにします。(あ、もちろん、私も当時の情景は知りませんけど...。)
ポール・エリュアールは20世紀前半の非常に重要な詩人であった。二つの第二次大戦の間に発表された彼の詩はフランス民族の価値と自由の大切さを強調していた。しかも、彼はサルバドール・ダリ、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンとともに超現実主義(シュールレアリスム)運動に参加していた。また、彼はピカソ、マックス・エルンスト、マン・レイの友人でもあった。彼の詩はその率直さとその明晰さで多くの人に感動を与えている。
ポー ル・エリュアールは「その気があれば理解せよ」を1944年に発表した。この詩は、『ドイツ軍の集合地にて』(Au rendez-vous allemand)と題された一群の詩の一つであった。しかし、この詩「その気があれば理解せよ」だけはそれ以外の詩とは異なっている。それは、エリュ アールがフランス人への激怒を表現しているからである。彼は対ナチスドイツ協力者の粛清の間に髪を刈り取られて丸刈りにされた女性たちをこの詩のテーマに している。「丸刈りにされた女性たち」とは、ナチスに協力したりナチス高官と「寝た」ために「罰せられた」女性たちのことである。それは、フランス人に対 する、フランス人による暴力の儀式であった。しばしば、レジスタンス運動家自身によってその暴力行為はおこなわれた。ここでは、エリュアールはナチスへの 怒りは表明していない。彼はただ、フランス人への暴力はこれ以上必要ではないと示唆しているだけである。特に、フランス人が自らの国の人々に暴力を向けて いるならば。エリュアールは、もちろんナチスを嫌っていたが、女性たちへの同情も抱いていた。
彼はいつも女性たちの苦しみを理解していた。母親や娘や(ナチスドイツの)愛人(だったフランス人女性)たちが戦争の間に失ったものがいちばん多かったと彼は信じた。このテーマは、フランス人女性たちに対して加えられた暴虐を語るこの詩の全編にわたってはっきりしている。
こ の詩の前に、エリュアールは、自分の詩を紹介しその意味をはっきりさせるための短い一節を書き加えており、そこに彼の落胆ぶりが明らかに示されている。彼 は、本当に罪ある責任者はナチスなのに、ナチスが責められるのではなく、女性が虐待されていたと言う。この詩のそれ以降の部分はその女性たちの濡れ衣を晴 らすためのものだが、エリュアールはここに本当の犯罪性が存するという彼の信条を表現している。彼は過去形を使い、戦争中の行為と戦争の後の行為を分けて いる。丸刈りにされた女性たちはそれによって歴史的存在、歴史と戦争の犠牲者となるのである。
この詩の最初の一行はこの詩の題名でもあ り、この詩へのいざないであるが、ひょっとしたら、挑戦かもしれない。「その気があれば理解せよ」とエリュアールは言い、そして、聞くことを求める。当 時、政府の人間だけではなく、多くのフランス人たちが女性たちを丸刈りにした。そこで、エリュアールはすべてのフランス人に向けてこの詩を書いたのであ る。題名と最初の一行はあらゆる人に向けて開かれている。最初の一行から、彼はフランス人たちに対して、「考えを変えよ。彼女たちを断罪することなく、当 時彼女たちが必要としていたことと彼女たちの行いを受け入れよ」と挑む。このいざないの後、彼は自分の「悔恨」を語る。彼自身の声で語ることが有用なの は、彼の言うことに耳を傾け、彼の気持ちを分かちあうようにいざなうという考えがあるからである。さらに、エリュアールは、彼の悔恨がフランス人たちが止 めようとしたナチスの暴力に向けられているのではないと言おうとしている。彼の悔恨は、フランス人によるフランス人への暴力に向けられているのである。
そ の後、彼は、丸刈りにされて路上に放置された一人の女性を見た個人的経験を語る。彼は彼女のことを描写するのに、短く単純な行の中で悲しい言葉を使ってい る。彼はその娘を「不幸な女性」(la malheureuse)と呼んでいる。これは、この状況の特徴である悲哀と絶望を示している。続く数行が表現しているのはこの女性の性格である。彼女は 「思慮ある」(raisonnable)犠牲者であり、そのことは、彼女の行ないの理由が理性的で人間的であることを示している。彼女の衣服は「破かれ」 (déchirée)ている。ふつう、犠牲者の女性は丸刈りにされるときは半裸または全裸にされたものである。その不幸な女性は「迷子になった子ども」 (enfant perdue)のようで、歳若く、無力な存在である。エリュアールは彼女が犠牲者であると強調している。続く二つの形容詞は韻をふみ、彼女の美しさが破壊 されたことを示唆している。彼女は「冠を奪われ」(découronnée)、社会の中での自らの価値と居場所を失っている。彼女はナチスドイツに協力し たりそのことで丸刈りにされたりしてその美を失ったのかもしれない。しかし、その組み合わせは彼女の名誉にとって確実に致命的であった。彼女はまた、(殴 られて)「歪んだ顔にされ」(défigurée)ているが、その言葉は彼女の名誉が失われたことを示唆しているだけではなく、物理的暴力があったことも 示唆している。この暴力は二つのことを示しているのかもしれない。一つは、彼女がナチス高官と「寝た」という仮定、もう一つは、彼女が公衆の面前で暴力的 に丸刈りにされたときのことである。したがって、エリュアールは、この二カ国、この戦争の敵どうしが一人の娘を陵辱したと言っているのかもしれない。エ リュアールは続ける。服を破かれて舗道の上に放置された「彼女は死者に似ている」(ressemble aux morts)と。たとえ彼女がナチスによって冠を奪われて(殴られて)「歪んだ顔にされた」のだとしても、彼女を死者に似せるようにしたのはフランス人た ちだったことに疑いはない。さらに、彼女は「愛されたゆえに命を落とした」(qui sont morts pour être aimés)ようなものである。そのことは、彼女が似たような理由で「死んでいた」ことを示している。フランス人たちが彼女を「殺した」のは、たぶん、彼 女がナチス高官と寝たからだろうが、彼女は「愛されている」と感じるためにそうしたのかもしれない。戦争は誰にとっても困難なことであった。エリュアール は対ドイツ抵抗運動の価値を信じたが、同時に、彼は愛の大切さも信じていた。彼にとって愛とはいつも特別なことであり、この歴史的瞬間をかえりみることな く愛さなければならないのである。
しかし、この女性は、そんなに単純ではない。彼女はまた、ナチスの犠牲になったフランス全土を表してい るのかもしれない。つまり、一つの暴力の階層があるのだ。ナチスがフランス人たちを陵辱し、フランス人たちがこの女性を陵辱した。もし、この娘がフランス であると考えたら、これらの人物たちの二つの側面を見ることになる。もしこの若い娘がナチスに協力したのなら、彼女には正当性はたぶんないであろうが、彼 女を責め苛む前に彼女の理由を理解しなければならない。多くの場合、丸刈りにされた女性は、政治にかかわることのできない娼婦であった。彼女も食べていか なければならなかったのである。同様に、フランスという国も、より力の強かったナチスの支配を受け入れなければならなかった。彼らは抵抗してはいたが、生 き、食べていかなければならなかったのである。それなら、もしこの不幸な女性がフランスを表しているとしたら、ナチスがその価値を破壊したことは明らかで ある。「冠を奪われた」(découronnée)という語は、この女性がフランスの象徴であることを強く示唆している。フランスは歴史的には強力で巨大 な君主国であり、そのイメージを本当に破壊したのはナチスである。ナチスはフランスの栄光と壮麗さを奪い去った。ナチスはまた、長い間仏独二国の間で争い の対象であったアルザス地方を占領してフランスを歪めた。第一段落の最後の語句は、祖国と自由のために死んだフランスの兵士たちのことかもしれない。彼ら は愛されたがゆえに命を落としたと言うこともできるかもしれない。なぜなら、彼らは祖国と自由への愛のために、そして、続く世代が生きて愛することができ るようにするために死んだからである。
第二段落は、陰気な雰囲気の三行から成り立っている。「一輪の花束が添えられて 覆われた」 (faite pour un bouquet / Et couverte)一人の若い娘は、死という考えを表している。しかし、その若い娘の死には立派な埋葬をする価値がなかったのである。彼女の人生すべては 一輪の花束の価値しかなかったのだ。そのうえ、彼女は豊穣な土で覆われているのではない。普通の埋葬ではなくて、彼女は舗道の上に打ち捨てられ、「暗闇か ら吐かれた黒い唾で」(noir crachat des ténèbres)覆われているのである。唾とは、不名誉の中で迷子になった彼女を尊重する気持ちが(当時のフランス人には)欠けていたことを示してい る。
反対に、続く段落は彼女が「みやび」(galante)であると言っている。そこで、彼女の運命が不当なものであることをエリュアー ルは強調している。彼は彼女を「5月1日のオーロラ」(une aurore de premier mai)、つまり、大きな希望を示す天気にたとえている。5月1日は労働者の祭典(メーデー)であり、歴史的に、無産階級や普通の人々によって祝われる日 である。5月1日のオーロラはフランス人全員にとって多くの希望の瞬間を示す。なぜなら、それは彼らにとって勝利の日の始まりだからである。この日は、フ ランス人全員にとっても世界中の人々にとっても、新しい平等の始まりを象徴している。最後の行で、エリュアールはこの若い娘を「とても愛らしい獣」(la plus aimable bête)にたとえている。「獣」(bête)という言葉は、たぶんその娘をナチス高官との性的関係に導いた性的本能を示唆している。同時に、この語は彼 女の無垢さと無力さを示唆している。
獣という発想はその次の段落でも続く。エリュアールは彼女を「罠に落ちた獣」(une bête prise au piège)と呼び、彼女の純朴さと無垢さを示唆しつづける。もしこの若い娘をフランスの象徴と見るなら、フランスにとっての「罠」(piège)とはヒ トラーの沈静状態であったと言うこともできるだろう。ペタン元帥は 強制労働の労役を若いフランス人たちに与えようとしていたが、実際は、やり取りがヒトラーの罠だったのである。「汚された」(souillée)という、 美の破壊という発想を示す語は第一段落の発想の続きである。かつて彼女は美しく、無垢で純粋だった。しかし、彼女はナチスとフランス人に同時に陵辱された のである。彼女は堕落した、穢れた存在になった。最初の二行の形式にも意味があるのである。』
さらに続く