今回で終わります。
楽天の禁止ワードに引っかかる言葉を、ひとつローマ字標記に変えました。
『エリュアールは、「穢れた」(souillée)という語と「獣」(bête)という語を二度繰り返す。彼はそれらの語の 重要性を強調しているのだ。なぜなら、その二語はその若い娘の最も重要な性質を意味しているからである。その二語には不潔さと道徳の欠如という二つの強い 意味が秘められている。エリュアールは「汚されたけれども、汚されたことも理解できない」(Souillée et qui n'a pas compris / Qu'elle est souillée)と言いながら、一つの問いを投げかけている。それはこの詩の最初のいざないに似ている。彼と読者との関係はとても私的で緊密なものであ る。「汚された」(souillée)という語は第一行の最初と第二行の最後に配置されている。これは一つの語の中に二行を封じ込めて強い印象を残すもの だ。この詩でのエリュアールの技法は、女性たちを責め苛んではならなかったと読者を説得するために力を込めて証拠を提示するというものである。
最 後の段落はこの若い娘の悲しい状況に私たちを再び導く。女性たちの命の環は「女性」(femme)と「母」(mère)という二語によって完結する。エ リュアールは一人の若い娘について語り、次に一人の母親について語った。エリュアールは、彼女の母親はこの追い詰められたこの娘のイメージを彼女よりも強 く意地悪な力によって守りたいと望んでいると言っている。最後の行で、エリュアールはこの状況の不幸は彼女の母親の不幸であると言っている。しかし、彼女 の母親というのは単に彼女の母親だけにとどまるものではない。なぜなら、エリュアールは最初の行で「女性たる彼女の母親」(ma mère la femme)と言っており、彼女の母親はすべての女性たちという最も大きなカテゴリーの一部であると示唆している。こうして、彼女の母親をフランスのすべ ての女性と娘のための象徴として見ることができるようになる。エリュアールは、この不幸は女性一人一人の不幸であると言いたいのだ。女性たちは現実を詩的 に表現したイメージであるこの「理想的なイメージ」(image idéale)を「やさしくあやし」(dorloter)たいと願っていると彼は言っている。「やさしくあやす」(dorloter)という動詞は非常に 母性的で、女性たちの苦悩を強調している。本当の愛の代わりに「この理想的なイメージ」(cette image idéale)を守る一人の女性、子どもや夫のための自分の愛を苦悩の肖像に置き換える一人の女性をエリュアールは示唆している。
エリュ アールは、女性の髪を刈り取ることはもはや無視することのできない大きな問題であると伝えたいのである。これが彼の詩のねらいである。つまり、彼は女性た ちに、彼女たちの姉妹たちの髪を刈り取ることに反対するように呼びかけようとしている。「不幸」(malheur)という語はまた、この詩の最初で使われ た「不幸な女性」(la malheureuse)という名前を示唆している。最後の語句、「地上で」(sur terre)も、二重の意味を持っている。最初の意味は生きている間の「この世」ということである。この不幸はもっと大きな不幸であり、あらゆるところに 生きる女性の不幸である。第二の意味は、この若い娘が「舗道の上」(sur le pavé)、あるいは地べたに倒れていているという、この詩の最初の部分との関連である。この不幸は特にこの若い娘と関連しているので、もっと具体的なも のである。
「その気があれば理解せよ」(Comprenne qui voudra)の最後はこの詩の環になった構造を完成させている。最初に、エリュアールはフランス人たちに挑みかけた。この詩の本体は、ある女性について の彼の目撃事例のための証拠を示している。詩の最後では、この若い娘の問題をすべての女性たちに広げて、なぜ彼女のことを無視することがもはやできないの かを説明している。誰からであっても自国民に対して暴力が加えられることをエリュアールは決して受け入れなかった。フランス人たちが他のフランス人たちを その行為によって罰した時、本来最大の敵と闘うために団結することが必要なのに、フランス人が二つに分断されてしまったとエリュアールは思っていたのだ。(翻訳引用ここまで)
長い記事をお読みいただきましてありがとうございます。これだけでは何のためにこれだけの手間をかけて訳したかピンとこない人もいるかもしれないと思いますので、あえて個人的な思いの一言を付け加えたいと思います。
高 遠さんや今井さんや郡山さんといったイラクでの日本人人質に向けられた恐ろしいまでの非難や罵倒、マスコミで煽られるある種の殺人犯と担当弁護士たちへの 過剰なまでの憎悪、沖縄や岩国での米兵による[goukan]の被害者女性に向けられた非難のことを思います。あるいは、少し状況はちがいますが、集団的暴力に歯止め のきかない状態であったある相撲部屋での「かわいがり」や、自衛隊内での「はなむけ」のことも思います。
そ れらのことは、ナチスドイツへの憎しみが高じて、衆を頼んでこの同国人女性の服を破り、殴り、丸刈りにして路上に放置した1944年当時のこのフランス人 群衆のことを思わせました。彼らは自分の行いを正義と信じていたのでしょうが、エリュアールはこの詩を通じて彼らの行いに異議をとなえたのです。
私 自身は改めて、このような一方的で暴力的な集団的狂気(fanatisme)には決して加わらないと自分に誓います。こういう文学作品に長い間触れると、 集団的暴力に加わりたくないという歯止めの感情が自然に自らの中に肉体化されずにはいられないと思うのです。こういう文学作品が残っている社会には、集団 的誤りへの歯止めが残っていると思うのです。
』
以上でした。
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