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上野千鶴子さんの追悼文が素晴らしいので転載する。
[リベラル、鶴見俊輔氏のための言葉 上野千鶴子氏追悼文■社会学者・上野千鶴子さん寄稿 鶴見さんが、とうとう逝かれた。いつかは、と覚悟していたが、喪失感ははかりしれない。 地方にいて知的に早熟だった高校生の頃から「思想の科学」の読者だったわたしにとって、鶴見さんは遠くにあって自(おの)ずと光を発する導きの星だった。 京大に合格して上洛(じょうらく)したとき、会いたいと切望していた鶴見さんを同志社大学の研究室に訪ねた。「鶴見俊輔」 と名札のかかった研究室の扉の向こうに、ほんものの鶴見さんがいると思ったら、心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックし た。二度、三度。返事はなかった。鶴見さんは不在だったのだ。面会するのにあらかじめアポをとってから行くという智恵(ちえ)さえない、18歳だった。 あまりの失望感に脱力し、それから10年余り。「思想の科学」の京都読者会である「家の会」に20代後半になってから招かれるまで、鶴見さんに直接会うことがなかった。それほど鶴見さんは、わたしにとって巨大な存在だった。 「思想の科学」はもはやなく、鶴見さんはもうこの世にいない。いまどきの高校生がかわいそうだ。鶴見さんは、このひとが同時代に生きていてくれてよかった、と心から思えるひとのひとりだった。 鶴見俊輔。リベラルということばはこの人のためにある、と思える。どんな主義主張にも拠(よ)らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた。 何事かがおきるたびに、鶴見さんならこんなとき、どんなふうにふるまうだろう、と考えずにはいられない人だった。哲学からマンガまで、平易なことばで論じた。座談の名手だった。 いつも機嫌よく、忍耐強く、どんな相手にも対等に接した。女・子どもの味方だった。慕い寄るひとたちは絶えなかったが、どんな学派も徒党も組まなかった。 哲学者・思想家であるだけでなく、稀代(きたい)の編集者にしてオルガナイザーだった。「思想の科学」は媒体である以上に、運動だった。 このひとの手によって育てられた人材は数知れない。独学の映画評論家佐藤忠男、「みみずの学校」の高橋幸子、『女と刀』の中村きい子、作家・編集者の黒川創、批評家の加藤典洋……。わたしもそのひとりだった。そう言える幸運がうれしい。わたしは長いあいだ鶴見さんに勝手に私淑していたが、後になって「鶴見学校」の一端を占めることができたからだ。 ベトナム戦争のときには、ベ平連こと「ベトナムに平和を!市民連合」と、JATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)を組織した。ベ平連に「アラジンのランプから生まれた巨人」こと小田実さんをひきこんだのは鶴見さんである。 加藤周一さんらと共に、「九条の会」の呼びかけ人にもなった。今夏の違憲安保法制のゆくえを、死の床でどんな思いで見ておられただろうか。 1996年に「思想の科学」が休刊し、十数年後にその意義をふりかえるシンポジウムが都内で開催された。病身を圧(お)して奥さまと息子さんに両脇をかかえられながら、京都から鶴見さんが参加された。そのときのスピーチもきわだって鶴見さんらしいものだった。 「思想の科学」の誇りは「50年間、ただのひとりも除名者を出さなかったことだ」と。社会正義のためのあらゆる運動がわずかな差異を言い立てて互いを排除していくことに、身を以(もっ)て警鐘を鳴らした。 2004年に歴史社会学者の小熊英二さんの企画で、ご一緒に鶴見さんを3日間にわたってインタビューした記録『戦争が遺(のこ)したもの』(新曜社)を出したときのことは忘れられない。 「何でも聞いてください」と鶴見さんはわたしたちのためにからだとこころを拓(ひら)き、どんな直球の質問にも答えをそらさなかった。思いあまっ て詰問調になったときには、空を仰いで絶句なさった。その誠実さに、わたしは打たれた。題名を思いついたのはわたしだが、話してみて鶴見さんにあの「戦争 が遺したもの」の影の大きさを思い知った。 最終日、鶴見さんの饗応(きょうおう)で会食したあと、わたしはこんな機会はもう二度とないだろうと、別離の予感にひとりで泣いた。 鶴見さんはもういない。もう高齢者の年齢になったというのに心許(こころもと)ない思いのわたしに、いつまでもぼくを頼っていないで、自分の足で歩きなさい、とあの世から言われている気がする。]
ここにも出てくる「戦争が遺したもの」は図書館の本で読んだが、その後購入した。 そしてこの本のことを知ったのは米原万里の「打ちのめされるようなすごい本」だった。 今も何かといえば米原さんだったら何と言うだろう。と思うことの多い私も「自分の足で歩きなさい」とあの世から言われている気がする、という感じは良くわかる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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