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「さよならの悲しみは、時が癒してくれると言うけれど、
自分の子供を亡くした親の悲しみというのは、 決して癒えることはないのかも知れない。 その深い深い悲しみこそが、 逝ってしまった我が子へのまぎれもない愛なのだから。」 「執着をやめると・・・」 自分が本当にほしいもの、体験したいことを味わうためには、 その反対側のものを体験しなければ、 それを、それとして認識できないというこの世のパラドックス」 「さよならの悲しみは、時が癒してくれると言うけれど、 自分の子供を亡くした親の悲しみというのは、 決して癒えることはないのかも知れない。 その深い深い悲しみこそが、 逝ってしまった我が子へのまぎれもない愛なのだから。」 「私は、ある夏の日の夕方、泣きながらこの世に生まれた。 人はみな泣きながらこの世に生まれる。安全な子宮の海を船出して、 未知なる航海に出て行くことがどんなにこわくても、 ある日、新しい世界に旅立つことを決意して人は生まれてくる。 まるで、この世の痛みや苦しみを象徴するかのような、あの真っ暗で狭い産道。 その暗闇の道を潜り抜けて出てくることは、どんなにか不安でこわかったことだろう。 人は誰でもこの世界に生まれる時に産声をあげるけれど、 生きていく中で、自分の中から新しい自分が生まれる時も産声をあげる。 古い私が死に、 新しい私が生まれる時のあの耐え難いほどの恐怖と苦痛、胸が張り裂けそうな痛み。 私も、自分の内側を旅し始めたどこかの時点で、 確かにある日、魂の産声をあげたのだと思う。 でも、その日がいつだったのかはもうよくわからない。 とにかくその産声をあげた日から、 私は、「私とは誰か」「世界とは何か」 「私は何のために生まれたのか」という探求の道に歩みだしたのだ。」 「しかし、神さまは、非情にも、冷酷にも、 獅子の谷落としのようなことも平気でするのだ。 その人が、そのことを通して大切なことに“気づく”ために。 その人が本質に“目覚める”ために。 その人が真の意味で自立し、 自分の生まれてきた目的、役割、天命、使命を自覚し歩み出すために。」 「で、執着や抵抗をやめて、ぽーんと身を投げ出してみたら、 なんと、もう次のステージはしっかり用意されていたのだ。 人生には大いなる存在の意図と計画があること。 人は幾多の生を生きてきた永遠の生命であること。 人はこの世を生きるに値するそれぞれの魂の目的があることを、 体験的にじわじわと、しみじみと、ウルウルと実感していった道のりは 本当にかけがえのないプロセスだった。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年05月03日 23時57分41秒
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