カテゴリ:震災のこと
5月3日 両親が富岡に帰還しました! 両親が避難中に頂いた皆様からのお力添え 励ましの言葉 本当に 本当に 心から感謝しております ありがとうございました 精神的に色々なものを無くした震災でしたが 振り返ってみればこの6年間で 得たものの方が 遙かに多かったような気がします もう あのような災害には二度と遭いたくない! しかし 何が起こるかわからない未来 自分自身 震災で学んだ色々なことを 時々このブログで思い出すことも 必要なのかもしれません 両親の引っ越しの様子と 両親が入居した 復興住宅近辺の富岡町の様子を 写真に収めてきました この日はやぶ庭家4人も休みを合わせ 両親の避難場所だった郡山のアパートへ集合! 6年ぶりに会う長男とうちの父 父はまた ひとまわり小さくなったような気がします お天気に恵まれて良かった~~! 二部屋しかないアパートの後片付けはあっという間に終わりました ご近所の方にも 6年間大変お世話になりました 郡山からは288号腺を通って 1時間半で富岡町へ 途中山道 クネクネ道ですが 高速を使うと遠回りになるので こっちの方が早く着くと 引っ越しのおじちゃん達も言ってました 引っ越しのトラックが到着! ここが両親達の新しい家です 家のすぐ斜め向かいは町の診療所 10メートル歩いた先にはヨーク・ベニマルとホームセンター 80歳を過ぎた2人が生活するには便利な場所が当たって 本当に良かったです お散歩コースも小川があって花が咲いてイイ感じ 3月に初めて家の鍵を取りに行ったときの両親の写真です 弟TULIPさん撮影 こんな綺麗な家に住めてとても嬉しい!と母は喜んでいました 父は少し戸惑いがあるようですが(^^;) ゴミ捨て場もすぐそばに 家の横は公園です 復興住宅が並んでいます 駐車スペースも2台分ある広さ 読売新聞やNHKの取材を受ける母 家の中に突然人がいっぱい入って来て インタビューされて ビックリした~~と言ってました 次の日の朝 NHKのニュースで放送されたみたいですが やぶ庭は残念なことに見逃してしまいました~~(> <) 引っ越し当日は叔父さんや叔母さん達も遠くから駆けつけ 懐かしい再会でした 皆さん高齢なのにそれぞれに車を運転し まだまだ元気 まぁ うちの母も現役ドライバーで 「これから時々郡山に行って 友達に会わなくっちゃ」なんて言ってますが とにかく今高齢者の事故が多いので それだけは気をつけて欲しいです(+_+;) TULIPさん運転で富岡の町を見に行きました 遠くに見える煙突は 第二原発 高台にあった実家からも普通に見えていた煙突 高校時代 まさか実家がこうなるなんて 夢にも思わないで過ごしていましたね 手前の白い建物付近は以前富岡駅があった場所ですが 津波の被害があった駅前の建物 住宅は整備されなくなっていました この大きな白い建物の中で除染されて出たものを 安全なものに処理しているということです 以前 一時帰宅で訪れた時 この辺りを埋め尽くしていた黒い袋も きれいに無くなっていました 震災前は海水浴場で賑わっていた場所 やぶ庭も小さい息子達を連れて 泳ぎに来たことがありましたね ふと下を流れる川に目を落とすとガードレールがグニャリと・・・ 津波の小さな爪痕です 以前の商店街 住宅街は静寂があるのみ・・・ 除染でスッキリはしているものの ほとんど誰も住んでいない様子 高校時代 朝遅刻しそうで走った道 帰り道 肉まん買って食べたお店 友達の家も そして実家もご近所さんも 誰もいない ただただ 静かで時間が止まったような感じがする これからここはどうなるんだろうな ここから先は帰宅困難地域です のバリケード これが現実ですね 「吉田さんの機転がなかったら 東日本全部が住めなくなっていたわけだからな・・・」とTULIPさん 本当にあの時 第一原発吉田所長が 政府や上からの海水注入中止命令に背き 断固として海水を注入し続けなければ 被害はとんでもないものになっていたのでしょうね はたして日本はどうなっていたのか・・・と思うと 計り知れない恐ろしさがこみ上げてきます 参考の為にリンクしておきます 日本を救った男 吉田昌朗元所長の原発との壮絶な戦いと死 門田隆将著 富岡の帰り道は 高速を使って約1時間半で仙台に戻りました 以前里帰りで6号線を通っていた頃の半分の時間です 早い早い! 両親が実家の町に戻って 自分の中の気がかりもこれでひとまず終了です 新しい終の棲家で これからも今までのように楽しみを見つけて 元気に過ごして欲しいと思います お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|