少年犯罪について
17歳の少年が幼い子をハンマーで殴り、頭蓋骨を陥没させました。大人になると、ちょっとやそっとでは人を殺したいとまでは思いません。あるいは衝動的にそう思うことがあっても、実行には移しません。いや、そうでもないぞ、という人は、犯罪者かその予備軍でしょう。ところが、心身のバランスが不安定な思春期には、家庭環境に異常がなくても、「殺してやる」という衝動が簡単に起こりえます。大人になると忘れてしまいますが。いわんや複雑な家庭環境で育った少年をや。つまり人間はもともと、それほど理性的でも合理的でもないのですよ。近代に入ってもヨーロッパでは子供に鞭を打って教育する国が多くありました。要するに子供は動物扱いだった訳です。翻って現代では、人権思想の強大化を背景に、少年を過酷な労働や虐待から「保護する対象」としてきました。わが国の少年法も少年の「健全な育成」を基本理念として少年を保護してきました。しかし、法規範というものは、時代状況に応じて変わらなければならないものですよね。かつては少年犯罪の被害者は、加害少年の存在を確認できないのみならず、そもそもどんな状況で被害にあったのかすら、知る術がありませんでした。少年法の改正により、改善された点があるものの、少年犯罪の被害者は、その怒りや悲しみをどこに向けたらよいのかわからない、という不幸の追い討ちを受けることに変わりはありません。おそらく被害者に近ければ近いほど、その感覚は大きいと思います。「少年の保護およびその健全な育成」と「少年犯罪被害者の幸福追求権の保護」は二者択一のものではなく、バランスが大切であると思われます。現在の少年法でも、私にはやや前者に傾き過ぎて、バランスを失しているように思われます。ただ、高名な法学者や実務法曹は、人権を軽視しているような印象を持たれるだけで致命傷でしたし、ほぼ例外なく前者の保護法益を強調していました。少年法の改正を「世界の恥辱」と叫んだ学者もいましたが、現在私はその先生の本を一冊も所有していません。でも法規範というものは学者や実務法曹のものではなく、一般人のものですから、必要であれば、社会情勢により変わるべきですし、また実際変わるのです。悲しい事件とも向き合わなきゃね、という人はどうぞ、◎人気ブログランキングはこちら