カテゴリ:小説「ジパング」
梅津は艦橋から外の景色を睨みつけていた。何故かこの雲を見ていると眉間に力が入ってしまう。窓越しに見える雲は一層に圧迫感を増して梅津の四肢を強張らせている。
海に出て35年と2ヶ月、こんな雲は見たことが無い。たかだか雲からこれほどまで胸に圧力を感じた事があっただろうか。今になって、先ほどの角松の報告を聞いたときの妙な感覚が生生しく理解できた。 私の第六感が呟いている。 「みらい」はなにか良くないことに巻き込まれようとしているのだ。 以前にもこれと似た感覚を覚えたことがあった。あれは梅津がまだ下士官で、レスキュー艇による人命救助の任務に当たっていた時の事である。 197X年某日。 海上自衛隊にレスキュー要請が入った。沖合にてレジャーボート転覆、乗っていた家族の救助が目的である。 梅津を含む自衛隊員数十名が現場に向かうと、岩礁に乗り上げてしまい非常に危険な状況のボートを発見した。 即座に海上、海中両面からの救助作戦が展開、梅津は海上からボートを固定する任務にあたった。現場が岩礁地帯ということもあり波が高く、ただでさえ荒れている海の中でも際立って危険な場所と化していた。熟練の自衛隊員でも命を危険に晒すような場面である。まして当時、梅津は自衛隊に入りたての新人であり、これが初の「実戦」であった。 それまで、プールでの海上レスキュー訓練を十分に積み優秀な成績を収めていた梅津を本物の海という魔物がその凶悪な姿を剥き出しにし襲いかかった。 一瞬でも気を抜こうものなら躊躇無く深い海の底へ引きずりこもうと、波という爪が梅津をとらえ、その牙は梅津を足元から襲いゆっくりとだが確実にその体温と精神力を奪い取っていく。全身が沈んでいく様な幻覚に何度も襲われ、梅津は恐怖と自らの小ささを知った。 そして、岩壁で削った手の甲の傷以上に梅津の心に深い爪痕が残される事となる。 それまでの梅津は「常に死と背中あわせ」という自衛隊員のストイックなイメージに踊らされていた。死という人間の結末を乗り越えた、ある種の到達点に登りつめていく感覚に酔っていた。 「人の為なら我が命をも投げ出せる」というのではなく、「人に向け投げ出す為に我が命がある」というあまりに偏った自己犠牲精神。そのヒロイックな正義感に酔いしれていた。 事実、かつての梅津は早く人を救い出したい、この命を投げ出すような場面に出会いたいと心中にしたためていたようだった。人の命を救う者が自分自身の命も大切にできないのでは冗談にもなるまい。その事に気付けるまでに自分は時間が掛かりすぎた、と梅津は思っていた。 そして今、あの時と同じ感覚を眼前の雲から受けている。この生生しさは、過去の自分との一時的な邂逅がもたらしているのか。ではなぜ、このような時に過去の事を思い出しているのだ。 梅津は左手をおもむろに見た。そこにあの時の傷はもう残ってはいない。年月という名の風に晒されてきた、無数のしわが刻まれている「今」の自分の手の甲だけが確かにそこに在った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.07.21 01:16:40
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