大昔からやっていた織物業のリサイクル
最近世間では、「リサイクル」とか「エコ」とか叫ばれていますが、実は大昔から家業であった「織物業」では、普通にやっていたのです・・・ 小学校の頃は、織物の原料である「糸」は、「ムシロ」に入って入荷していました(ムシロに包まれていたという表現の方が正しい。今は段ボール)・・・ 「ムシロ」とは藁(わら)やイグサなどの草で編んだ簡素な敷物で、菰(こも)とも呼ばれ、代表的な製品には、ござ(茣蓙)があります・・・ 糸を取り出した後、ムシロを捨てるのではなく、それを製品(織物)出荷の「梱包材」として、再利用していました・・・ ムシロ(敷物)もそうですが、糸入荷の際の「藁のひも」も出荷の際に、「くくるヒモ」として再利用しました・・・ 結果、「糸(原)」入荷の梱包材をそのまま、「織物(製品)」出荷の梱包材に使うというリサイクルをしていたのです(仕入れゼロ)・・・ ただ藁のヒモを使って出荷作業(荷作り)をすると(今は自動梱包器ですが、当時は手作業)、手が擦れて痛く、カチカチになり、そこだけ毛が生えるのです・・・ 若かった私は、女の子とデートする時は、その手を見られるのが恥ずかしかったですねェ(理由を聞かれても・・・)・・・ 染工場に直接出荷する場合は、ムシロに包まず「裸」で出荷したようなので、余ったムシロは業者に販売していたようです・・・ 戦争直後の昭和20年代前半の物価が高かった頃は、ムシロ1枚で「山1坪」買えたという噂を聞いたことがありますが、本当かもしれません・・・ 大学生の頃は、糸が入っていた「段ボール」を軽トラックに山盛り積んで、業者に売りに行って小遣い(バイト代)にした事がありますねェ・・・ また工場内で出る「風綿(綿ぼこり)=ゴミ」も、織機の油分を含んでいましたので、風呂を炊く原料になったのです・・・ とにかく大量に出ましたので、子供の頃は、現場で集めた(掃除で)その風綿を取りに行って、風呂を炊くのが日課でした・・・ やはり昭和20年代前半のモノのなかった時代は、その風綿も近所に売れたというのですから、リサイクルもここまで来ると立派ですねェ・・・ また糸の最小単位の「チーズ」は、「木管(もっかん)」に巻かれており、その木管も1本「10銭」程度利益を載せて、回収業者に売っていたのです・・・ また子供の頃は、その20センチ程度の木管を、だんじりの太鼓の「バチ」に見立てて遊んでいましたねェ・・・ またその木管には穴が開いており、チーズ5,6個を縦に「竹の棒」が木管を貫通しており、それを曲げてヒモを張って「弓矢」として遊んでいたのです・・・ここまで来ると、もう傑作ですねェ・・・ また織物業を廃業する10年前までは、残糸(余った糸)や不良品(B,C反)も売れたのです・・・軍手や軍足、裏地などの原料になっていたようです・・・ とくにB,C反は、戦争直後のモノ不足の時は、服の下に腹巻代わりに1メートルほど巻いてミナミに行けば、ドンチャン騒ぎが出来るほどだったらしいです・・・今なら、捨てるのに金がかかります・・・ また戦後の闇市場では、糸1コオリ(重量が400ポンド(約181kg)=現在の正規の糸相場で6,7万円)で家が建ったというくらいですから、正に織物業としては「天国」だったのでしょう・・・ 世の中変われば、変わるものです・・・自分も変わらなければ!・・・※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.comにほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ