大阪難波で鳳高クラス会
昨日はミナミで、毎年恒例の鳳高校(27期・昭和50年卒)1年10組のクラス会でした・・・学校の同窓会というのは、大人数の学年単位でするのもイイですが、少人数でやるクラス会の方が大いに盛り上がりますし続きます・・・小学校のクラス会もよくやって毎回大盛り上がりですが、これが学年(3クラス)となると規模の問題で毎年するのはチョッと難しいでしょう・・・高校も45人クラスで10クラスもあり、5年毎の学年同窓会には200人弱来ますから、まとめるには大変だと思います・・・そしてクラス会と言っても、だいたい高3のクラス会が多いものですが、「高1」のクラス会というのがオモシロいところです・・・それだけ、みんな仲が良く、思い出深いクラスだったのです・・・多感なティーンエイジャーのど真ん中である中3から高1への「変化」というのは、人生にとってかなりショッキングなものです・・・子供からチョッと大人になり、急に目の前が「パーッ」と開いたとでも言うのでしょうか・・・その同じ時代に一緒に過ごしたのですから、忘れろと言っても忘れられるはずもありません・・・勉強、部活、恋愛、学園祭、キャンプ、遊び、単車、富木駅、遠足・・・思い出が一杯詰まっています・・・夏に担任の先生家族と槙尾山にクラスでキャンプに行った時、夜の肝試しで誰かが川に落ちて病院に運ばれたというのも全く忘れていましたが、言われてみて記憶が蘇ってきたのには驚きです・・・10代の時の記憶や体験は、自分では分かりませんが、身体の何処かに残っているのでしょうねェ・・・思い出を語って楽しく時を過ごすという意味で、同窓会というのはホンマいいですねェ・・・このクラス会も、もちろん「最後の2人になるまで、死ぬまでやろか!」という意気込みです・・・(笑)今回は、1年10組以外に4人飛び入り参加です・・・1年のクラスが違っても、何の問題もありません・・・むしろ同じ学年であれば大歓迎です・・・そうやって、27期全体が他の学年から羨ましがられるほど盛り上ってくれればイイのです・・・事実、我々27期の1年時、2年時、3年時の何クラスかは、定期的に何処かでクラス会をやっているようです・・・それに加え、部活の4~5学年を横断した飲み会もチョコチョコあるようです・・・自分的には、2年1組と3年9組のクラス会があればオモシロいと思いますし、オーケストラ部も在籍していた当時の集まりがあれば飛んでいくのですが・・・(笑)大阪府で3校しかないオーケストラ部も、今は全国大会にも出て大変盛り上がっているようで何よりです・・・私が在籍していた当時(S47~49年)、オケ部を創設した顧問の先生が御病気で長期休んでいたため、部員不足で廃部か弦楽器を切り離してブラスバンド部で再スタートするかどうかの瀬戸際だったのです・・・昭和20年代はテレビ出演したり、日本で最も有名な指揮者である故・朝比奈隆氏が来校されたりして大変盛り上がっていたにも拘らず、その20年後の我々の世代ではどん底だったのです・・・3年生の先輩らが「引退」することなく卒業ギリギリまで活動してくれるだけでなく、卒業後大学生や浪人生になってでも学生服を着て演奏会に助っ人で出てもらって、何とかこの危機を切り抜けたのです・・・今ある鳳オケ部も、彼ら先輩(S48年、49年卒)のお蔭だったのです・・・そういう意味で、卒業後2,3回しか会っていない先輩らと一杯飲みたいものです・・・という事で、今回のクラス会も近況報告が1人目で脱線してしまい、そこらじゅうで昔話で「ワー!」という盛り上がりで、何が何だか分からないほど「アッと」いう間に時間が過ぎてしまい、2次会はいつもの様にカラオケに突入です・・・土曜のミナミは外国人観光客と若者で溢れかえり、満員御礼のカラオケではだいぶ待たされました・・・カラオケでは昭和音楽のバトルです・・・松山千春、野口五郎、アリス、ユーミン、石橋正二、五つの赤い風船、井上陽水、吉田拓郎、EW&F、昭和演歌・・・昔話で大いに盛り上がる一方、現実直面している老後問題である年金や退職後の事や孫や親の介護の話題という真剣な話も・・・来年還暦60歳を迎える我々昭和31年生まれならではの会話です・・・昨日は久しぶりのミナミでしたので、4時間前に難波駅に到着して独りミナミを徘徊しました・・・(笑)まず高島屋と大丸で自分の好きな紳士服ブランドと鞄と靴をチェック、心斎橋からアメリカ村、飲み屋街の東心斎橋周辺を何回かカフェに入って休憩しながらノンビリと時を過ごしました・・・ノンビリとは言いながら、キッチリ地元の不動産情報を見たり、繁華街の変貌を実感する事によって、業者としてのセンスや嗅覚を磨く事を忘れません・・・泉州の田舎にずっと籠るのはNGです・・・たまには、都会の空気を吸って目を覚ますのです・・・(笑)こうして自分の五感を通して、「日本第2の世界の大都市 大阪」の今を感じるのです・・・まだまだ現役の商売人なら、当たり前の事ですが・・・普段なかなかこんな事は出来ませんが、この独り自由にブラブラというのはイイですねェ・・・浪人時代を思い出します・・・高校時代もずっと低空飛行でしたし、浪人時代も予備校をサボり勉強もせずにズルズルと、一生懸命に働く親に「悪いなァ・・・」と気兼ねしながらも阿倍野天王寺周辺をブラブラと・・・環状線を何周も乗ったり、JRで京都や和歌山へ当てもなく行ったり来たり・・・天王寺や中之島図書館で受験に関係のない読書を一日中したり、それはそれは寂しく辛く孤独で惨めな浪人生でした・・・グレず本当の非行に走らなかったのは、病弱な父親が一生懸命働いていた後ろ姿を見ていたからかもしれません・・・やはり父親というのは、子供にガミガミ言うのではなく、一生懸命働くのが教育だと・・・まァ、この浪人時代は長期スランプとでも言うのでしょうか・・・今で言う軽い「鬱」だったのかもしれません・・・同級生らは大学生や社会人になり、自分ひとりだけが取り残された感が強かったですねェ・・・まァ、失敗の経験が無く順調に人生を歩んできた人間には、この屈折した心情を本当に理解するのはチョッと難しいでしょうねェ・・・この浪人の経験で、自ら考える事が習慣になり孤独に強くなったのかも・・・(笑)その後も勉強に身が入らず不完全燃焼のまま、本来第一志望だった建築学科とは程遠い大学へ・・・ここで、完全に自分の気持ちを意識的に切り替えましたねェ・・・ここで切り替えねば、一生ダメだと・・・数年のサボり癖が一生を台無しにすると・・・しかし我々27期、他の学年から羨ましがられるほど仲が良いそうです・・・ちょうど大阪府立高校の学区が9学区制(今は4学区制)に移る前の5学区制「最後」の学年で、通学区域が堺から岬町までと広く多種多様な生徒が集まって刺激があり、大学受験は旧課程「最後」の学年だったからか(理系受験に必須の数学と理科が浪人すると不利)・・・それと鳳高校は入学前年までヘルメットにゲバ棒で暴れた学生運動が激しく、校舎がペンキの落書きの跡形だらけで、その反動で校則があってないようなもので、単車通学OK、遠足は各クラス単位で自由に決め私服で現地集合解散、当時全盛だったフォークソングをギターを持ち込んで何処でも歌っていたり、授業は出席さえすれば成績が悪くても落第しなかったり、学園祭は何をヤッテも自由・・・と、昔は「三国地獄」「泉陽牧場」「鳳監獄」と呼ばれていた時代もあったようですが、鳳がイメチェンして自由が満ち溢れていた「最初」の学年だったからか・・・(笑)という事でカラオケの最後は、学生集会でよく歌っていたフォークソングの五つの赤い風船の「遠い世界に」と、日本の偉大な作曲家「山田耕作」作曲の「校歌」をみんなで合唱です・・・「遠い世界に」の最後の歌詞で これが日本だ私の国だ 若い力を身体に感じて みんなで歩こう長い道だが 一つの道を力の限り 明日の世界を探しに行こうこれって、今の政治経済が混迷した日本の状況にピッタリで、我々日本人へのひとつのメッセージになるのでは・・・まァ、40年前に戻ってチョッとしんみり、何人かは泣いていたのかなァ・・・(笑) ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ