過去の日米首脳会談で大阪の繊維産地が苦境に(ten.にテレビ主演)
安倍首相とトランプ大統領との首脳会談の日に放映された読売テレビ「かんさい情報ネットten.」に出演しましたが、反響が思いの外多かった事に驚きました・・・反響というのは「かつては泉州の繊維産業が隆盛を極めていましたが(昭和40年代まで)、何故衰退してしまった(97%減)のか理由が解った・・・」というものです。小中学校の頃はどこへ遊びに行っても、「ガチャガチャ」と織機の音がしていたものです・・・町内に11軒、隣村には20軒も織屋さんがありました。小学校の時に、家が織物関係の仕事をしている人は農業との兼業も含めて半数くらいは手を挙げたものです・・・それが、ほとんどゼロになってしまったのですから、時代の流れというのは残酷です。※大阪泉州地区の南半分の貝塚市から岬町まで、大阪南部織物組合員数が昭和40年代前半680社あったのが、現在20社と97%も減ってしまいました(岸和田市以北の泉州織物組合や泉佐野市のタオル組合や泉大津市の毛布組合は別として)。1970年代前半にアメリカのニクソン大統領と日本の佐藤首相との日米繊維交渉で「糸を売って、縄を買った(日本の繊維製品のアメリカへの輸出を自主規制する代わりに、沖縄の返還が実現)」というのは元織物業の当事者間ではあまりにも有名な話でしたが、一般の人には殆ど知られなかったというのが解りました・・・繊維に関わる人間にとって生死に関わる事ですが、関係なければ殆ど無関心という事なのでしょう・・・繊維と一口に言っても、自動車産業と同じように裾野が広いですから、日本で2番目の大阪経済に与えた影響は計り知れません・・・当時私は高校生でしたが、滅多に見ない新聞を食い入るように読み、親父から「明日から風呂は2日に1回や・・・」「ジーパンの洗濯は月に1回洗え・・・」といった具体的な節約命令が出て、この先どうなるのやらと不安で仕方ありませんでした・・・のんびりとオケ部でトランペットを吹いている場合ではないと・・・当時織機の半分は西ドイツ向けの幅広50番手ポリエステルスパンの平織物を、残り半分はオッパ物(定番綿織物)を織っていましたが、オッパ物を織りの難易度が高い和布団生地の40番手サテン(朱子織り)に早々と転換しました。この変わり身の早さに、高校生ながら驚いたものです・・・当時織物なんて、年がら年中同じ織物を織り続けるのが常識でした。実は同じ原料(糸)を使う事による、業界特有の「ウマ味」があったのでした・・・日本の繊維業界のビジネスの本場である大阪本町に近く、繊維に強い伊藤忠や丸紅、紡績の本社もここに集中していましたので、泉州の織物業者は商売で苦労する事は少なかったのです・・・「地元の利」と言えばそうですが、苦労なく楽して長年商売をした結果、これが仇になったんですねェ・・・まァ、そんな環境で「品種替え」するなんて、大阪の常識では考えられませんでした・・・子供にとって、「何か(事件が?)あったんか?」と不安になるのも仕方ないでしょう・・・日米繊維交渉があってから数年の間は、近隣の同業者の廃業が相次ぎましたが、うちは朱子織り(サテン)という少し高級織物を織っていましたので、商社の注文が途切れることなく24時間操業していました。当時1台25万円くらいで政府の「織機の買い上げ」をしてくれましたので(補助金として)、簡単な平織しか出来ない同業者はその制度に手を挙げ廃業が相次ぎました・・・これが、これまで通りの定番しか織っていなかったら、弊社も廃業に早々と手を挙げていた事でしょう・・・親父の「何としても、織屋で生き残ってやるぞ・・・」という執念みたいなものが、高校生であった私にもヒシヒシと伝わってきた事を昨日の事のように思い出します・・・(涙)。「本当の苦境に陥いる前に、何とか知恵を絞りだす(逃げ道を見出す)・・・」というのを親父の背中が物語っていました・・・苦境に陥ってからでは遅いのだと・・・これが後々、バブルの1年前に旧シャットル式織機から新エアージェット織機への設備更新や、リーマンショックの2年前にトランクルームへの転業(織物業の廃業)に繋がっていったのでしょう・・・まだプラザ合意の影響で円高不況だったバブルの1年前(1987年)に設備更新する事によってバブル以降の2,30%安く設備機械が買えましたし(ウン千万円のコスト削減)、北京オリンピックとリーマンショックの2年前(2006年)に廃業しましたので、中古織機や鉄クズ関連が結構イイ値で飛ぶように売れましたのでトランクルームへの転業も割とスムーズにいったのです・・・1年違いで天国と地獄・・・正に、タイミング・・・1年後の1988年からのバブル期以降に織機を買えば高く買わされ、2008年以降に中古織機を売却しようにも安すぎて売り値が付きません。私は株はしませんが、正に安く買って高く売るという株の売買の原理と同じです・・・照れ屋な親父からこの「人生はタイミングがすべて・・・」というのを言外に教わりました。という事で、取材に来られたten.の山川デスクの鋭い嗅覚に恐れ入りました・・・報道デスクというのは、医者と同じように毎日毎日大変な仕事のプレッシャーに耐えながら頑張っているのだなァ・・・と感心しました。私が今ヤッテいるトランクルームや不動産やスタジオといった仕事なんて、大したコトないなァ・・・もっともっと頑張れる余地があるのだと感じた次第です・・・にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ