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カテゴリ:辛苦の織物業時代(30,40代)
私の社会人としての人生で、織物業が一番長かった訳ですが、その中でも「織機(織物機械)の更新」が最大のポイントだったと、今振り返ると心底思います。
1985年にサラリーマンを辞めて家業に戻った時は、まだ子供の頃と同じ古い「シャットル織機」でした。 その頃、100年に1度とか言われている「織機の革新」時期で、横糸供給方式が、「シャットルから空気(エアー)に変る」というトンデモナイ変革でした。 1週間程悩んだ末、結局導入を決断した訳ですが、機種(メーカー)の選定で紆余曲折がありました。 当時織物の商売で、4,50年ずっと100%賃織り(委託加工)させて頂いたのは某総合商社でして、当然その商社の機械部門からAメーカーの導入を勧められていました。(その商社はAメーカーの代理店でしたので) Aメーカーは当時シェア90%(世界)で、同業の織物業者も「商社の商売絡み」で殆どAメーカーを導入しようとしていましたし、当社も当然の如く「仮契約」をしていました。 ところが、導入して失敗すると自己破産も免れないほどの設備投資金額でしたので、「技術的な面」で再検討をする事にしました。 再検討して分かった事は、「Bメーカーの方が、Aメーカーより織物の最大の欠点である綾枕が出にくい(バックローラーが1本か2本かの違い)」という決定的な差でした。(特許の関係か?後年Aメーカーも「綾枕対策」に、2本バックローラーを採用し経糸テンション安定化を図る) この欠点はもちろんAメーカーも商社も言葉にしませんでしたし(商社はむしろ知らなかった?)、Bメーカーも自社の優位性にあまり気づいてませんでした そこでAメーカーに断りを入れ、シェア5%だったBメーカーと、バブル前の円高不況だった事もあり、「破格の条件」で契約を結ぶ事に成功しました。 その後、織機だけでなく、コンプレッサー、空調、ワインダー、防振台、タイイングマシン、検反器、ビームキャリア、筬、工場建設の工務店、電気工事など「すべて」を見直し、当初の計画よりウン千万も予算が削減できました。 一番大変だったのが、「工場のレイアウト」でした。 エアージェット織機の2階建ての新築工場というのは、殆ど前例がなかったものですから、自分で製造過程を推測して、動線を紙で機械の模型を作りながら、工場のレイアウトをひとつひとつ決定していきました。 そしてその後「取引停止の覚悟」をもって、事情を取引商社の織物部長、課長に説明すると、当然多少難色を示していたものの、最終的には理解をしていただきました この一件の事は、亡くなった親父と共に、未だに涙が出るほどその当時の部課長に本当に感謝しています 長年の「互いの信頼関係」が、社内間のしがらみをも打ち砕いたということでしょうか。(繊維がその商社の発祥部門であったという事もありますが) 結果的に、その某総合商社とメインに取引している同業の織物業者らはAメーカーを導入し、Bメーカーを選択したのは弊社1社だけでした。 中にはその商社と取引したいばかりに、Aメーカーを導入しましたが、取引出来なかったという「気の毒な」織物業者もありました 世の中そんなに甘くないでしょう もしこの件で、Aメーカーを導入していたら、弊社の「今はない」と断言できます。 それ程、苦渋の決断でした ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.09.27 15:41:10
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