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カテゴリ:辛苦の織物業時代(30,40代)
亡くなった父親が、子供の頃からよく私に言っていた言葉が「スパナを持って現場に入り、そろばんをはじけ!」でした・・・
昭和ひとけた生まれの父親は、戦争直後の「ガチャマン時代(織機が1回ガチャンと動くたびに1万円儲かる)」を若い頃に経験し、日本経済は戦後30年も高度成長期に支えられ、それほど努力しなくても簡単に儲けられた「良き時代」をずっと経験していました・・・ という事で、父親と同年代の織物経営者は、織物現場に入る必要もなく、経営に専念していればよかったのですが、父親の場合は「現場に拘りました」・・・・ 異色と言えば異色の存在だったように思いますが、やはり「左甚五郎のDNA」の職人気質が騒いだのでしょうか・・・・ 子供の頃から、父親がスパナを持って織機を修理しているのを見たり、事務所でそろばんをはじいているのを見て、「両方やらんとアカン!」という事を自然と頭の中に組み込まれていきました・・・ 当然小学校低学年から、工場の手伝いをさせられるのも「当たり前」だと理解していましたし、中学高校大学と学年が上がるにつれ、掃除、管巻き、運搬(反物、糸)、検反、機織り、油さし、荷造り、つなぎ(タイイング)、織機修理と難易度が上がってきました・・・ 大学生の頃、結構難しい「つなぎ(タイイング)」というのを初めて親父から習いましたが、2回目は独りでやったところ失敗してしまったのですが、普段あまり怒らない親父にこっ酷く怒られました・・・ 普通は10回くらいでやっと半人前という仕事なのですが(本当は結構奥が深いのですが・・・)、2回目で1人前の仕事を要求されたのです・・・ 親父が恐ろしく、落ち込んだのは言うまでもありませんが、同時に「仕事の厳しさ」を身をもって感じましたねェ・・・ また織物製造業の基本である工場内の「掃除と油さし」を徹底的にさせられましたねェ・・・ もともと織物工場には火事はつきもので、掃除と油さしを徹底する事によって、予防しようというものでした・・・ しかし若い頃はイヤでしたねェ・・・いつも身体が油臭く、荷造りと機械いじりによって、手がゴツクなり、荷造りの藁のヒモで、ある部分だけ毛深くなっているのとかを、デートの時に女の子に見られるが恥ずかしかったです・・・ 現場のそれぞれの工程に細かい「コツ」が沢山あり、それを習得するのにかなりの時間がかかりました・・・しかしそれを乗り越えると「光」が見えてくるという、「職人冥利に尽きる」という味(感覚)を身をもって分かったのが大収穫でした・・・ このように人間生きていくには、ブルーカラー、ホワイトカラーどちらか一方だけではダメで、「両方同時に出来ないとダメ」という事を子供の頃から学んだように思います・・・ ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚 ※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.com にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.09.27 15:35:03
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