|
カテゴリ:地元情報(貝塚市)
今から48年前の東京オリンピックで、女子バレーが金メダルを取りました・・・
その時の殆どのレギュラーメンバーが、「ニチボー貝塚」だったのです(旧ニチボー貝塚工場、その後ユニチカ貝塚工場)・・・ ちょうど小学校2年生で、先生から「オリンピックの開会式を見るのが宿題や!」と言われれて、全員早退した記憶があります・・・ その「ニチボー貝塚」というのはかつて、文字通り貝塚市小瀬のホームセンタームサシあたりにあったのです・・・ オリンピック当時、貝塚市は今と全く違って、金メダルで沸きに沸いていました・・・ ニチボー貝塚工場は、紡績業を主体として、織物業もやっており、織物産地であった貝塚市と深い関係があったのです(ある意味、弊社と同業者だった)・・・ 今では考えられない事ですが、その当時の優勝メンバーは「スポーツ専業」ではなく、ちゃんと8時間働いてから(シャットル織機の織布工として)バレーの練習をしていたのです・・・ ただ織物工場は、24時間操業の3交代制が普通だったのですが、バレーの練習を夕方から深夜までするために、「早出専門(朝5時~昼1時まで仕事)」にだけはしてもらったようです・・・ 機織りの仕事を8時間やったあとで、きついバレーの練習を8時間以上もするなんて、正に「地獄の特訓」です・・・ よく担任の先生がバレーの練習を見に行って、「そりゃ恐ろしい練習をしてるでェ、あんたらも見習わなアカンでェ」とよく言われたのが懐かしいですねェ・・・ たしか決勝で旧ソ連と戦ったはずですが、1日中バレーをやっていたソ連の「プロ」集団に勝った勝因は、仕事とバレーを睡眠を削ってでも「両立」させた「ド根性」だったと思います・・・ まさに死ぬほど頑張り抜いたという「精神力」が相手を圧倒したのでしょう・・・ 今どきこんな「根性論」を書いても流行りませんし、若者には横を向かれそうですが、私のバックボーンにはこういう教育があったのですから、今更変えようもありませんし、変える気は毛頭ありませんねェ・・・ まァ50歳半ば以上の日本国民で、「ニチボー貝塚」の名前の知らない人は少ないと思います・・・というか、世界中でも知らない人はないくらい「ショッキング」で、これほど感動的な事はありませんでした・・・ まだ日本が戦争に負けて、19年しか経っていなかったのですから・・・ ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない) トランクルーム貝塚 ※貝塚市の不動産情報の総合サイト 貝塚不動産.com にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.25 16:33:39
コメント(0) | コメントを書く
[地元情報(貝塚市)] カテゴリの最新記事
|