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カテゴリ:昭和(小中高大)の思い出
早朝からIOCの2020年オリンピック開催地の選考会の模様を、テレビでずっと見ていました・・・
東京に決まって、ホント良かったです・・・ 人生で2度、日本でのオリンピックを経験する訳です・・・ 前回の1964年の東京オリンピックは、小学校2年生でした・・・ 登校してすぐに、先生から「今日の宿題は東京オリンピックの開会式をテレビで見る事やでェ!みんな、はよ帰り!」と言われたのを思い出します・・・ その後、先生は「家でテレビのない子は、〇〇室でみんなと見るさかい・・・」と言われました・・・ 当時は、家でテレビや電話のない子も珍しくなかったのです・・・ もちろん、テレビは「白黒」で、カラーではなかったのです・・・ こんな事を書きながら、「なんて、年を取ったのだろう」と自分でも情けなくなりますが・・・(笑) それが、今から49年前の日本の地方都市の現実でした(敗戦19年後)・・・ 特に東京オリンピックで優勝した大松監督率いる「女子バレー」の殆どのメンバーは、東洋の魔女とも言われた「ニチボー貝塚」でした・・・ これで「貝塚」という地名が全国的に知れ渡ったのです・・・ 家から近い貝塚市半田にあった旧ニチボー(現ユニチカ)貝塚工場の女子従業員が金メダルを勝ち取ったのです(貝塚工場では紡績と織物生産)・・・ 当時のバレー部員は、「早出専門」で朝5時から昼の1時まで、うちの家業と同じように織機を織って(現場で働いて)、昼から夜の10時、11時まで血の滲むようなバレー特訓をしていたようです・・・ 今では珍しくない「回転レシーブ」も、彼女らが考案したと後から本で読みました・・・ そういった特訓で、「根性」を養ったと・・・ 学校の先生から、このような苦労話をよく聞かされましたし、実際当時はそうだったようです・・・ 当時は戦後20年も経っていませんでしたので、まだ国民は貧しかったですが、かなり「復興」し、高度成長期の真っ只中でした・・・ 日本には希望があり、「勢い」に乗っていました・・・ どんな場合でも、この「勢い」というのが大事ですねェ・・・ オリンピックをキッカケに、更に高度成長をしようという雰囲気が国内に満ち満ちていましたねェ・・・ 昨年末に政権が変わっても、今一つ景気浮上の実感がない現状を打破するためにも、今回決定した2020年東京オリンピックをキッカケに、日本の景気が良くなることを切に願いますし、震災復興や原発問題も国を挙げて一気に解決するように全力を挙げて欲しいと思います・・・ ここもポチッと押してください!ご協力お願いします! にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.25 16:30:43
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