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カテゴリ:辛苦の織物業時代(30,40代)
今、日米TPP交渉で、豚肉の日本への輸入関税でまだ揉めているようです・・・
思い起こせば、ちょうど40年以上前の中学生の頃、日米は日本の対米輸出繊維製品の事で揉めていました・・・ 日本の安い繊維製品がアメリカに輸出され、アメリカの繊維産業が窮地に立たされたのです・・・ そこで1968年の米大統領選で、繊維製品の輸入規制を公約したニクソンが、米国と沖縄返還交渉を進めていた佐藤栄作首相は69年の首脳会談で、返還に合意すると同時に、対米繊維輸出を自主規制すると伝えたのです・・・ 繊維輸出と沖縄返還を絡めた交渉は「糸(繊維)と縄(沖縄返還)の取引」と言われましたが、繊維交渉は決裂し、71年6月の沖縄返還協定調印後、日本が輸出規制と引き換えに繊維業界に補償することで決着し、72年1月に日米繊維協定が調印されたのです・・・ それまでは家業の織物業はイケイケドンドンで、設備の半分のシャットル織機を入れ替えてまで、主に西ドイツ(当時)向けの広幅ポリエステル短繊維織物を主力に織っていました・・・ 工場も24時間稼働で、日曜の昼まで工場が動いていましたので、子供ながら景気がイイのだなァと感じていました・・・ ところが、この日米繊維協定の日本の輸出織物の自主規制と翌年に起こったオイルショックのダブルパンチで、家の中では大変な事になってきたのです・・・ 親父から「明日から風呂は2日に1回やどォ」「ジーパンは1ヶ月洗濯するな」等々・・・という具体的な節約指令が子供にも出たのです・・・ これには、子供心に「エライ事になってきたなァ・・・」とショックでしたねェ・・・ 家に居ても、親父の顔色や言動が気になって仕方がないのです・・・ この辺が、親父がどんな仕事をヤッテいるか?分からないサラリーマン家庭との大きな違いです・・・ 景気の浮き沈みが、地肌に伝わります・・・ その頃から、親父は輸出織物からまだ競合の少ない国内の寝装向けのサテン(朱子)の生産に全面的に方向転換しましたねェ・・・ まだ高校生であった私ですが、親父の「変わり身の早さ」に驚くと共に、商売の何たるか?をチョッと垣間見たような気がしました・・・ 戦後日本の復興に貢献してきた繊維産業ですが、織物産地として泉州は岸和田から堺を「泉州織物組合」、貝塚から岬町までを「南部織物組合」の2つに分けられていました(泉大津の毛布や泉佐野のタオルは別にして)・・・ 弊社は南部織物組合に所属していましたが、最盛期の日米繊維交渉前の昭和40年代前半では約680社ありましたが、今は約15社と98%も減っているようです・・・ ナント、665社の織物工場が倒産や廃業です・・・ そして繊維産業に代わって、家電産業と自動車産業が長らく日本の経済を支えてきましたが、ここに来てまた「大転換期」が来ているようです・・・ これから、日本はどうなっていくのでしょう・・・? という事で、将来に向けての日本の舵取りは非常に難しい問題ですが、これからの高度成長は不可能と思いますので、100年先を見つめ、もう目先のGDPに拘らず「一時は2、30番目くらいまで落ちてもイイ・・・」くらいにドンと構えて、教育を中心に抜本的に国策を考え直して、100年後に10番以内くらいの国になっていればイイのではなかと思います・・・ ここもポチッと押してください!ご協力お願いします! にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.26 10:07:02
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