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カテゴリ:昭和(小中高大)の思い出
日本は今、五郎丸選手の活躍によって、チョッとしたラグビーブームです。
このラグビー、堺市にある鳳高校時代に経験しました。 実はオーケストラ部に入る前に、2週間ほどラグビー部に在籍していたのです。 そしてナント、当時は鳳高校の体育の授業で男子は柔道と共にラグビーが必須だったのです。 友人に誘われてラグビー部に入ったものの、最初運動部室棟に入った時に驚きました。 まるで豚小屋?のように雑然として汚かったのです(失礼!)・・・ 「ホンマかいな?これ着るの?」というくらい、もう何日も洗っていなくて、汗と泥にまみれたジャージを着せられ時は、これが旧制中学の伝統か?と変に納得したような自分がいました・・・(笑)。 当時流行っていたテレビ青春ドラマシリーズの「青春とはなんだ」「これが青春だ」で、これまでラグビーだったのが「飛び出せ!青春」の村野武範からサッカーに変ってしまい、先輩らが「何でラグビーなくなったんや!」とぼやいていましたねェ・・・ 「われら青春」の中村雅俊からまたラグビーに戻りましたが・・・ ラグビー部の練習や授業でタックルをするのですが、これがナカナカ勇気がいるんですねェ・・・ 運動場はもちろん芝生ではなく、普通の土です。 腰から上を狙えば倒れる事も少ないですが、先輩や先生は「足を狙え!」と叫びます。 膝から太ももを狙えば、確実に2人とも倒れますし、場合によってはタックルした方は相手の踵で胸や顔を蹴られます。 柔道のヘッドギアを付けてしますが、毎回何処かケガをしたものです。 このテレビ青春ドラマシリーズの1960年代の最初の「青春とはなんだ」と「これが青春だ」に準主役として、鳳OBの俳優の故・藤木悠さんが出られていたのも懐かしいです・・・ 藤木さんはラグビー部ではなく野球部で、戦後の学制改革で旧制鳳中学の野球部員の殆どが泉大津高校(旧制女学校)に移ってしまい、彼らが主体となって甲子園に出場したという話を聞いた事があります・・・ また、柔道の授業も厳しかったですねェ・・・ もう2回目の授業から、さっそく体重別で座って寝技の乱取り(試合)を始めました。 毎回試合を行い、勝敗によって成績が決められ級もくれましたので、みんな必死です・・・ よく試合中に、首の絞めあいで気絶(おちる)する者もおりましたが、先生が柔道の達人でしたので活を入れると直ぐに元に戻りました。 2年間で殆んどの投げ技と絞め技を学びましたが、やはり体重の重い奴や腕力の強い奴には敵いませんので、小柄な私には接近戦は不利だと悟りました。 その経験が、その後相手との間合いをある程度取って戦う空手に向かわせたのかもしれません・・・ 柔道とラグビーの授業でかなり鍛えられましたが、水泳も厳しかったです。 100m泳げなければ卒業できなかったのです。 私は水泳はどちらかというと得意でしたので問題はありませんでしたが、泳げない生徒は夏休みに泳げるまで補習、補習でした・・・ という事は、鳳OBやOGにはカナヅチがいないという事です。 まァ、当時の男子の柔道やラグビーでの厳しい体育の授業が、男が実社会に出た時に絶対必要な「闘争心(イイ意味での)」を養う上での下地を作ったと言えるかも・・・ そんな体育の授業が厳しかった半面、他はノビノビと自由でしたねェ・・・ 私が入学(1972年)する前年まで鳳では「学生運動(学園紛争)」が激しかったようで、校舎のアチコチに落書きを消した跡が沢山見受けられました。 当時大学紛争の影響を受けて、全国的にいくつかの高校で高校生がヘルメットを被り、反戦や学生自治会体制の改革を求めたりしてデモをやって暴れたのです・・・ そんな社会的現象が地方のだんじり祭にも影響して、中学生だった私達はヘルメットを被ってだんじりを曳いていたのです(ファッション的な意味あいが大きいですが)・・・ 当時の高校生や大学生がそんな元気があったなんて、信じられますか? ある意味、そんな元気な世代だったから、バブル期に日本経済を引っ張っていったのかも・・・? まァ、高校の学園紛争が完全終結した代償として、生徒側は自由を勝ち取ったのです。 大阪の高校で制服がない(自由服)ところが多いのも、そういった事が原因です。 鳳は残念ながら自由服になりませんでしたが、その他では自由な雰囲気が渦巻いていました・・・ 今では信じられない事ですが、まず単車(原付)通学が許可されていたのです。 大阪一広い校舎には、自転車置き場と同じように単車置き場があったのです。 私も阪和線で通うと4,50分かかったものですから、一時期、当時流行のダックスホンダで13号線を走って20分で通ったものです。 もちろん高校生ですから、原付に乗れば次は250CC・・・ナナハンに興味を持つのは自然な事です。 デカい単車で通学してくる生徒は、校内に入れませんので、裏門前の店の前に停め、昼休みともなると、バイク談義に花が咲いていました・・・(笑)。 当時は大らかな時代で、先生も黙認していたかも・・・? 誕生日が早い者には、夏休みに自動車の免許を取って、2学期から車で通学してきて近所の田んぼに駐車している奴もいたようですが、それでも停学や退学という話は聞いた事はありませんでした。 遠足も各クラスが自由に決め、自由服で現地集合現地解散です。 美術の授業も、教室で油絵を描いている者は少なく、多くは広い校庭のあちらこちらで自由に描いていました。 当時あった松林のベンチで瞑想と称して昼寝していると、就業ベルを聞いてから走って教室に戻るのですが、校庭が広すぎるので走るのも必死でした・・・(笑)。 校庭が広すぎて、当時何も使っていない?第2グラウンド(今の本校舎辺り?)というのがあったのですが、結局卒業まで一度も行かず仕舞いでした・・・(笑)。 美術を専攻した生徒は、1学期に1回各自で美術館巡りが義務づけされていましたが、イヤイヤ行ったとしても、行くと必ず感動するんですねェ・・・これが。 感性を磨くという意味で、ホンモノの芸術品を見る重要性を高校生ながら感じたものです。 当時はフォークソング全盛で、校舎や校庭のアチコチで昼休みともなるとギターの音が聴かれ、学生集会では最後には必ず「遠い世界に」をみんなで歌っていましたねェ・・・ 私が所属していたクラシック中心のオーケストラ部を飛び出して音楽愛好同好会なるものを創った先輩が、私の好きなブラスロックのシカゴのコピーをやりだしたり、同級生らがキャロルのコピーをヤッタリして、教室や校庭でドラムをドンドン叩いたりエレキギターをガンガン鳴らしても何も問題がないどころか、声楽の先生が逆に「〇〇君、カッコええわ・・・」と言い出す始末です・・・(笑)。 当時ロックをヤッテいる事が、不良っぽく反社会的な時代背景もありましたが、そのリードギターの同級生が今は真面目に弁護士をやっている事を考えれば、何がイイのか悪いのか?・・・青春時代は勉強だけでなく、大いに悩むべしというのが正解だと思うのです・・・ 鳳高祭も盛大で、体育祭では学年を縦割りにして団をいくつか作って、学年に関係なく楽しんでいましたし、文化祭では喫茶店や劇、3年時には映画を作りました。 2年の劇では主役を演じ、3年の映画では音楽担当(BGMの選曲)でした。 もちろん、全曲シカゴです・・・(笑)。 当時のミキサー担当もシカゴの大ファンで、誰も文句を言いませんでした・・・(笑)。 「卒業」という題で、先生や後輩から心配されるほど受験勉強を忘れて、クラスみんなで映画製作や体育祭に没頭したものです・・・(笑)。 その甲斐あって、何度も何度も再上映を繰り返すほど人気を博しました。 残念ながら、その16ミリテープが何処へ行ったか分りません。 もし見つかって、もう一度見れれば多分みんなで笑って大いに泣くでしょう・・・(笑)。 そんな、みんなの思い出が詰まった作品だったのです。 そのミキサーくん、それがキッカケで、その後某有名テレビ局の本物のミキサーになり、今はそのテレビ局の制作部長です。 人生って、ホント分らんモンですねェ・・・ まァ、高校時代は自由の裏には責任が伴うのだと学びましたねェ・・・ という事で、高校のラグビー部も少ないようで、大阪南部の大和川以南の泉州地区(第4学区)では鳳しかラグビー部が無いようです。 泉州でラグビーをやりたければ、鳳しかない訳です。 ラグビーブームが、鳳の追い風になるか? 新聞のスポーツ欄やスポーツ紙は野球とサッカーの記事ばかりです・・・ 世の中、チョッと野球とサッカーに片寄りすぎでは? 高校の部活でも、運動神経の良い子は野球とサッカーに集中しがちです。 もっと分散して、他のスポーツにも目を向けて欲しいものです。 そういう意味で、今回五郎丸さんのお蔭で、世の中ラグビーにチョッと関心がいったのは歓迎すべき社会的現象です。 ビジネスと同じにしてはいけませんが、やっぱり、「100m走より800m走です」・・・競争の激しい分野より競争の少ない(ニッチ)を狙う方が実りが多い(成功率が高い)と思います。 個人的には、世界的に人気がありますが、日本ではマイナーでオリンピックと国体種目でもある空手とウインドサーフィンにもっともっと関心をもって欲しいのですが(空手は2020東京オリンピックからほぼ確実)・・・(笑)。 今は少子化で、公立高校でもPRしないとナカナカ生徒も集まりにくいようですし、学区も撤廃され、来年から前期も後期もなくなるようで、私立高校も入り乱れて各高校が淘汰されないように必死のようです。 少子化で生徒が減っているのですから、経済の原則から考えれば、パイの奪い合いになるのは当たり前の事ですが・・・ そういう意味で、大阪に3校しかない私の在籍していたオーケストラ部と、「泉州唯一」のラグビー部がセールスポイントになるのではないでしょうか・・・ 高校は社会人になる単なる通過点に過ぎませんが、多感なハイティーンにとって人格形成という意味で最も大事な時期であろうと思います。 勉強+アルファがあってこそ、将来有能な社会人となり、充実した人生を送れるのだろうと思います。 もう一度高校生に戻るなら、富木駅からの通学路途中にあった三原流の空手道場に通って、高校に空手同好会を創っていたでしょう・・・ 1年生で創っていれば、2年でブルースリー・ブームでしたので、モテ過ぎて困っていたでしょう・・・(笑)。 不動産の事業用不動産の仲介で、塾のオファーも多いですが、どこも進学実績ばかり売り文句にしているのも分りますが、塾の方も高校の中身をもっと知る努力をすべきだと思います。 そりゃ、成績順に受験高校を振り分けるだけなら、そんな楽なことはありません。 しかし高校受験だけでなく、その子の将来の人生を本当に考えるなら、どこの高校がどんな特徴があるのか?その子の性格に相応しい最適の高校がドンピシャで選べるなら、そんな素晴らしい塾はないでしょう・・・ それが少子化で競争が激化している塾業界での、塾の本当の差別化かもしれません・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.02.06 14:36:43
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