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カテゴリ:辛苦の織物業時代(30,40代)
13年前に57年続いた家業(織物業)を廃業して、今のトランクルーム賃貸業に転業した訳ですが、何も急に転業を思い立った訳ではなく、今思うとココに至るまでに20年間くらいジワジワと浸透してくる周りの環境の変化に大きく影響されたのです。
34年前のサラリーマンから家業に転職した直後から、主力取引先の伊藤忠の課長から「もうシャットル(力)織機の時代ではないよ・・・」とアドバイスされ、同じシャットル織機でも中古のユニフル付き「自動」織機に全台の半分を入れ替えました。 1週間浜松のエンジニアの自宅に泊まり込みで、ユニフルの技術を学びました。 これからはユニフルの時代だ・・・と信じて疑わなかったのです。 しかし、それから1年後にはこの信念がガタガタと崩れてしまいました。 時代は杼で横糸を運ぶ方式の「シャットル織機」から、100年ぶりの大改革と言える空気で横糸を飛ばす方式の今主流の「エアージェット織機」に変わろうとしていたのです。 当時100%委託生産(賃織り)をしていた総合商社の伊藤忠は機械部門もありましたので、機械部隊から日産自動車のエアージェット織機を売り込んできました。 トヨタもスズキも祖業は織機メーカーなのは有名な話で、日産自動車もかつては織機を作っていたのです。 織機の半分を「力から自動」に入れ替えたばかりなのに、今度はまた取引先のアドバイスで「これからはエアージェットだ!」と考え方を180度転換せざるを得ず、午前中は自社で働き、午後からは当時既にエアージェット織機を導入していた遠縁の織物工場で新しい技術(エアージェット織機の)を学ぶために働き始めました(もちろん無給で)。 そこで半年間働いてある程度技術を学んだ後、自社でエアージェット織機を導入する計画を進めました。 それから1年後に2棟あった織物工場のうち1棟を、エアージェット織機専用織物工場に建替えました。 それがバブル勃発前年の1987年で、円高不況の真っ最中でした。 私は株はしませんが、株の売買と一緒でどん底景気で安く織機を買い建物を新築したのです。 これで2年後(1989年)のバブル期真っ只中にエアージェット織機を導入した同業者より、確実に30%くらいはイニシャルコストを抑えられた(安く機械と建物を買えた)でしょう。 金額にして、ウン千万円・・・零細企業にしてはトンデモナイ節約金額です。 これが目に見えぬ大きな競争力になったのです・・・(涙)。 エアージェット織機を導入してから直ぐに、羽毛布団の側生地とダウンジャケットの側生地の生産に特化しました。 当時シャットル織機では生産できないほど高密度の織物で、エアージェット織機でしか織れない織物でしたが、同業他社がエアージェット織機を雪崩のごとく導入してくるまで2年間ほどだけソコソコ儲けさせて頂きました・・・(笑)。 バブル期に入ってから銀行融資が緩くなった関係で、同業他社が雪崩を打ってエアージェット織機に入れ替え始めましたが、弊社は既に他社より1,2年先行していたため、ソフト面(織物ビジネス)もハード面(織機の稼働状況)も完全に軌道に乗り、当初は100m走で既に10mほど先を走っていた感じでしたが・・・ しかし、いくら他社に先駆けて参入しても、他社も出来るような「甘い技術」では値段勝負の消耗戦になってしまい、共倒れ・・・というのが身に沁みました。 また取引商社に営業に行っても、オフィスの中は日々刻々と変わっていくのが分かりました。 30数年前の伊藤忠の産地織物課という部隊と長年取引をしていたのですが、課の取引が日本国内だけだったのですが、ある時弊社担当の新入社員Aさんが電話で英語で商談しているではありませんか・・・(驚)。 どうしたのかと聞くと、彼曰く「これからは産織と言っても、海外とも商売やっていかんと・・・」と。 それから1年も経たないうちに、彼は中国語で電話商談しているではありませんか・・・(驚)。 ゴルフも私と同じように120~140くらいで回っていたのに、いつの間にかスコアを40ほど縮めているではありませんか・・・(驚)。 彼に理由を聞くと「仕事終わってから、毎晩ゴルフ場に通っていたのです・・・」と。 当時の商社マンの激務は尋常ではありません。 夜の10時11時までモーレツに働くのが普通で、それからゴルフの練習となると深夜になっていたはずです。 案の定、彼はその後出世し、伊藤忠ファッションシステムの社長になりました。 優秀な人間は、最初から同期の中でも全然違う(異質)というイイ見本です。 毎週金曜日に大阪本町に営業に行って、その後よく伊藤忠の色んな社員と居酒屋や寿司屋やライブハウスで接待していたのですが、彼だけが私にソっと手土産をくれました。 頭脳と体力に優れ、心遣いも天下一品・・・出世しないはずはないと思いました。 彼に一番教えられた、ある「一件」が今でも忘れられません。 いつものように大阪に織物の営業に行ってAさんから「ナンボでしますか(1m何円の賃織りで受注しますか)?」という非常に厳しいオファーの問いに対して、私が「チョット待ってください・・・」と答えた時に、「一体誰と商談したらイイのですか?」と強い口調で即答を求められました。 当時はまだ社長であった父親も大阪に来て商談していて、私が専務として「二重の営業」をしていて、父親が最終決定していたのです。 月産20万mも生産していましたので、一歩間違えば赤字に転落しますので、親父にすると「まだまだコイツ(息子)に任せられない・・・」と思っていたのでしょう。 まァある意味、親父に甘えていたのです。 彼の言葉に「これじゃ、イカン!」と会社に戻ってから、父親に「これから俺が営業するさかい、黙っといて・・・」と宣言し、多少揉めましたが、それ以降私が全責任を負って営業活動したのは言うまでもありません。 この「一件」があったからこそ、その約10年後に父親が急死して一時窮地に陥った時も、私が営業も現場も100%把握していたので難を逃れることが出来ました・・・(汗)。 零細企業経営では営業だけとか現場だけというのは通用せず、経営者が何もかも把握する必要があったのです。 その為、会社経営で1番大事な「経理」だけが唯一不得手の分野でしたので、父親が亡くなってから必死に勉強しましたが・・・(汗)。 まァある意味、Aさんに感謝しないといけませんねェ・・・(笑)。 まあしかし、そんな伊藤忠社員の変化に応じて、オフィスに展示してある生地サンプルも、染色加工サンプルに変わり、パンツや上着といった製品サンプルに、5年、10年。20年と掛けて刻々ジワジワと変わって行ったのです・・・ 周りの環境や相手が変わっても、こちらは変わらずに済むというのはあり得ません。 そんなジワジワ変化していく日々を20年ほど続けて・・・2006年に織物業を完全に廃業しトランクルーム賃貸業に「転業」したのです。 伊藤忠の繊維部門はバブルの清算でリストラを決行し祖業の原料分野(糸、織物)から殆ど撤退し、川下分野(アパレル輸入)と3国間貿易の開発や投資といった分野にシフト変化して大成功を収めています。 という事で、取引先にビジネスを学ぶという姿勢は、仕事が今のトランクルームや音楽スタジオという「B to B」から「B to C」のエンドユーザー相手に変わっても、何ら変わりません。 ビジネスの基本は同じだからです。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.10.19 06:39:37
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