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カテゴリ:だんじり祭&左甚五郎
今から45年前に、私は地元貝塚市名越の当時の法被をデザインしました。
もちろん私はデザイナーでも何でもありません。 単なる今で言う祭キチガイ・・・だったのです(笑)。 当時10年近く続いていたオシメのような名越の白地の法被が町内で不評で、我々青年団が「何とかしなくては!」と立ち上がり、名越青年団の1つの上の幼馴染から「やってくれよ」と全面的に頼まれたのです。 独りで考える・・・当時は相当なプレッシャーでした。 ひとりで色々考えたあげく、他の町と同じ色ではオモシロくないと、紺色の法被に決めました。 当時の木島地区は清児は白、森はエンジ、三ツ松は黒、水間は黒だったので、それ以外の色として自分も好きだった紺色の法被に独断で決めました。 その紺色も当時「岸和田の上町と中町の中間色を染めてくれませんか?」と発注した紺善の社長に相談を持ち掛け、「難しいなァ・・」と言われ不安になりました。 確かに家業の繊維業界では紺色の染色クレームが1番多く、染工場にとって紺色はウイークポイントだったのです。 しかし、紺しかない・・・と、自分のココロに決めていたのです。 ロゴは大工町のロゴをヒントに、名越の「名」を上下さかさまにデザインし、自分なりに上手く考えたなァ・・・と(笑)。 今から思えば、このロゴの意匠登録くらいは取っておけばヨカッタなァ・・・と(笑)。 そしてデザインと紺善の見積書を持って町内会の総会で私が法被変更の提案をすると、村の役員たちが「それでエエわしょ・・・」とアッサリ提案が通り、それまで1人でやってきた苦労が報われて感無量でした・・・(涙)。 これが「改革」と言うんだなァ・・・と未だ22歳でしたが、身をもって1つ学んだのでした。 自分の人生を振り返って、何かをやってきた「実績」として、この「紺の法被」があった・・・というのは自信をつけたという意味で大きかったのです。 人生なんて平たく言えば、この自分の行動力で得た「小さな実績」の積み重ねで、それ以上でも以下でもありませんから。 大した実績(実力)もないのに、学歴(学閥)や会社や親(家)をバックに威張って生きている人(それしかない人)は、傍から見ていてコッケイで気の毒です。 という事で、今から60年くらい前の私が子供だった頃の「名越カラー」は実は紫だった(今の名越の80歳くらいの人達が青年団だった頃に「29人組」というパープルの法被を作っていたのです)・・・というの逸話を話すと、今の若い子は「カッコいいやん!」と言うかもしれませんねェ(笑)。 それにちなんで、私が中学生の頃に年が前後の幼馴染と「9人衆」というパープルの法被を作っていたのです。 その紫の法被も今から思えばちょっと「染ムラ」があったのですが、中学生だったので染工場にクレームも言えなかった・・・のです(涙)。 「トランクルーム貝塚」「スタジオ0724」「貝塚卓球センター」「テレワーク&スタディ貝塚」 「 貝塚不動産.com」 大阪府貝塚市名越661 tel:072-446-0798 mail: info@sasatani.com にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.08.10 09:42:21
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