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カテゴリ:myself
言葉が具体的な事物をあらわすという考え方は、どうも間違っているようだ。
人が行っていることは、文字をヒントに頭の中でそれと一致するものを認識しているだけだ。 その頭の中の事物が一致しない限り、言葉が示すものが具体的であるとは言い難い。 感情表現や状況描写だけではなくて、固有名詞についてでもある。 「林檎」という文字をみたときに、もちろん「林檎」として頭で認識する。 ある程度の範囲までは、十人一色である。 ただ細部になってくるとてんでばらばらだ。 色、形、想像している角度こういっことに対しては十人十色だ。 これは何も言葉に限った事ではないと思う。 目を通してみる景色についても同様ではないか? 普段は認識していなくても、人は何かを見るとき必ず印象を受けている。 これもまた、同じものを見たとしても十人十色ではないか。 さらに人は感情を介入させる。 感情の抱き方だって人それぞれだ。 結局、一人一人違う視点でしか物事を見ることはできない。 しかし、これはただ単に我々はオリジナルであるということの再認識に他ならない。 完全一致を試みなくたって、他人と意思疎通を図ることは可能だ。 言葉に於いても、書き手の視点に通ずることもできる。 どういうことかというと、事物に対する共通認識の範囲はそれほど狭いものではないからだ。 コミュニケーションのうまい人は、相手の共通認識範囲を理解できる人間ではないか。 ところで、芸術家は3つのタイプに分かれると思う。 1、共通認識範囲を理解そして、利用し客体に訴えるタイプ 2、ひたすらに自己範囲、オリジナルにこだわるタイプ 3、上記二つの中間又は、使い分けができるタイプ。 文学には、2のタイプに近い「純文学」と1のタイプに近い「大衆文学」が存在する。 音楽もジャンルではなくて、創作意識という視点から区分してもいい気がするのだが。 ロックであろうとクラシックであろうと、さらに言ってしまえば音楽であろうと文学であろうと完成品だけでなく、作者の創作意識が寧ろ問題ではないのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 12, 2006 03:50:08 PM
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