先日、奈良で起こった「妊婦たらい回し事件」が報じられるようになって数日がたった。事件の詳細についてはまだわかっていないことも多いが、当事者近くの医療関係者などから漏れ伝える話を聞きまとめると、事の真相はマスコミが報道しているものとは幾分違っているようだ。
このあたりの詳細についてはYosyan先生の「新小児科医のつぶやき」やphysician先生の「へなちょこ医者の日記(当直日誌兼絶望日誌)」医療関係者用の掲示板「m3.com Community(医師専用)」などでまとめられているので参考になさるのもいいかと思う。
いずれにせよ、今回の事件は不幸な事例なのだが、小さな不幸が重なって起きた事件であることは想像に難くない。初産・深夜という時間帯・地域特性・脳出血と子癇との鑑別・病院との信頼関係…それぞれ単発であれば何とかクリアできたかもしれなかっただろうが、こうした些細な出来事が積もり積もると全国報道レベルの大事件となる。
こうした事件はほとんどが「ああしておけば…」「こうしておけば…」という過去への反省だ。結果が前提として存在し、その結果を回避するためにはどうしておけばよかったのかを悔やむ事例が大半だ。事件が起こっている「渦中」の判断が正当だったか否かを問う声は意外に少ない。
先日、SankeiWebの【主張】で「病院たらい回し 患者本位の基本忘れるな」という一文が掲載された。その文末で「患者を救うのが、病院や医師の義務である。患者中心の医療の基本を忘れているから患者をたらい回しにし、患者不在となる。もう一度、医療とは何かをしっかり、考えてほしい。」と結ばれるのだが、「たらい回し」と「患者中心の医療」が同列で論じられれているあたり、少し論点をはき違えているような気がする。
確かに夜中にややこしい患者さんが来院するとなればあまり乗り気ではない。それは単に仕事をさぼりたいからではなく、自信がないからだ。「プロだからそれなりの自覚を持って仕事をしろ」といわれそうだが、やはり絶対的マンパワーの不足する当直時間帯は自分一人で乗り切れるという自信が湧いてこない。昨今の訴訟沙汰を見聞きしていればなおさらで、自分自身100%以上の力を出し切ったと思える症例でも結果が悪ければそれまでの努力はほぼゼロと算定される。仮に訴訟沙汰にでもなろうものならその勝敗がどうであっても精神的負担などは重くのしかかってくる。
患者中心の医療と声高に叫ぶ人たちは、まずその考えを再認識するところから始めることをお勧めする。「患者中心」と「患者の権利」の対極には現場で働く医療者たちの生活もあるのだ。ちょっとした微熱で夜中に受診するようなコンビニ受診が蔓延するのもこうした「患者中心」の考え方が一方的に大きくなってきたことに起因しているのではないだろうか。疲弊は次第に医療者側へと圧縮され、耐えきれなくなった病院や医師たちが崩壊していく。
こうした現実を直視してなお「患者中心」と叫び続けるのなら、一度医療者側の立場に立ってもらうよう切望する。
「自分で対処しきれないと思ったときは、すぐに上級医師を呼ぶこと。それは恥でも何でもない。患者さんのことを真剣に考えているのなら面子にこだわってはいけない。それも立派なスキルだ」
研修医時代の上司はこの言葉を口癖にしていた。血気盛んな研修医が暴走しなかったのはこうした上司の言葉があったからだと思う。オールマイティなど存在しない、だからみんなで力を合わせていこう、というメッセージだったのかもしれない。こうした力を合わせていけるような仕組みが構築されれば、今回のような不幸な事件も減少していくに違いない。
人間の手ではどうしようもないことがある「医療」という現場だからこそ、後出しじゃんけんのような「ああすればよかった」という言葉は御法度だと思う。「患者中心の医療の基本を忘れている」という安易かつ、とってつけたような論評がなされている限りこの国の医療は闇の中を彷徨うことになるだろう。
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