Gift
今日は母の一周忌の法要があった。祥月命日は5月の26日だが、来てくださる方々の都合も考えて少し早いが日曜日にした。私たち家族と、親族10名ほどのささやかな法事だったが、すこしはにかんだような笑顔の母の写真を囲んでお経をあげ、会食をした。一年、あっという間だった。昨年の母が天国に召された日は、澄んだ青空がどこまでも広がっていて、ただ鳥のさえずりだけが聞こえているような静かで穏やかな春の日だった。認知症になってからようやく、ずっと出稼ぎで離れて暮らしていた父と一緒の時間を過ごし、それまでのつらかった思い出はすべて忘れて、少女の頃の記憶の中で最期の時間を送った母。母がいなくなってはじめて、私は母の心の中とも、自分自身とも向き合えた気がする。母は一番の相談相手だったし、一番の理解者だった。不出来な娘の夢や可能性をいつでも信じてくれていたし、身体のことやなにかと心配もしてくれた。私には兄弟がいないこともあって親がいなくなった後も一人でいきていけるように、厳しかったところもあったし、つらいときよりも嬉しいときや感動したときに泣くようになったのも、母の影響が強いと思う。そんなふうに育ててもらったが、ろくな親孝行もできないうちに母は旅立ってしまった。それから一年。天国で見守っている母が心配しないように、幸せに花園で暮らせるように笑顔で過ごしたいと思ってきた。いままでほっぽっといた自分の心にも身体にも目を向けて、ちゃんとメンテしていこうと。そうすることでしか、もはや母に恩返しはできないから。毎朝母に線香を手向け、手を合わせるときに短い時間だが話しかける。自分が描いている夢と、それにむかってどのくらいやれているか報告している。そしてさいごに一言いう、「今日も一日頑張るからね」と。今私は少しずつ変わりつつある。自分の心の「ほんとの声」が指し示す方向に歩いていく。わがままだとか勝手だとか言われてもいい。どんなに時間がかかってもいい。その先にある、「ほんとになりたかった自分」になれるように。自分の心で、自分の足で、ちゃんと歩いていける自分になれるように。そうして変わろうとする意識は、きっと母のくれたGiftなのだろう。