1986初めてのソウル
昔、韓国の空港で泊まるつもりで、OBビールと焼肉を知り合った軍人におごってもらってたらふく食ったのであるが、その後の宿泊代が当然無くって、いやもともとなくって、空港に夜中の最終バスで到着して入ろうとしたら、駄目と言われた。準戦時国家では空港に入れないのだ。警備員に金(ウォン)はないといっても通じず、追い返された。しかし私には武器があった。テントという。しかし、私は鳥目なのか周りが良く見えず、テントを張るスペースがどこにもなくて道端で困っていると雨が降ってきて余計に困って、ありゃーというと見事に空間が現れ、そこにテントを張った。大雨が降り、蚊に悩まされた。それに臭いもなんか強烈。朝方、私はおじさんにテントをこずかれ、起きた。そこは壮大なる金浦空港のゴミ焼却場であった。夏だというのに寒い空に感じた。いそいそとテントをたたみ、歩いて空港に向かい、バンコクへと旅だったということを思い出した。その後、バンコクからソウルへ館 バンコク、ドンムアン空港の床でで目覚めた小生は、所持金が1,000円である現実に対して、韓国5日間をどう対処していくか、それが目下の課題であった。 正確にいうと、日本円1,000円以外にも、タイバーツで数百円分あったことは、心の支えでさえあった。私の乗る大韓航空で、頑張って明後日の分程度まで飲みまくり、フラフラしながら、ローカルバスでソウル市内に向かい、そして、大学の前で下車したのであった。 当時は、何を隠そう、小生、西ノ宮市民なら誰でも知っている大学に通う大学生であったので、大学生的特権を使うことが得策と考えられた。何を隠そう、その大学は実名で出すと、東国大学という大学であり、すかさず、私は学生課に向かって言ったのである。勿論、髭面である私の風貌に、あまり髭を伸ばす習慣のない韓国人は驚き、何故か私の事をアメリカ人と間違えたようなのであるが、まあそれはよい。小生は、日本の学生を代表して、御大学を表敬訪問しました!と高らかに宣言したのである。きっと、日本の大学生は全員ヒッピーなのだと思われたかもしれないが、学生運動が吹き荒れる政治の季節である大学当局のシンパシーを得たことは間違いない。というか、もしかしたら乞食或いは物乞いと思われたのかも知れない。 しかしながら、韓国の大学は大変親切かつ親切かつ親切なのであった。1時間後には、大学の正門を出て一番近い中国料理店にて、学生数人と酒盛りをしていた冷静沈着な私であった。そこには、教授まで飛び入り参加し、私は本当に親善大使のような気がしてきた。しかし、親善で訪れたことに誤りはない。ただ飯に預かろう、誰かに泊めて貰おうなんていう浅ましく、卑しい考えは、小生の心の奥底にしかなかっただけなのであった。しかし、心の奥底でなく、体の胃袋は、最近1日1食という健全たる食生活を数日送っていたために、小さく小さくなっており、豪華絢爛満漢全席酒池肉林状態の中華料理をほんのちょっと食べただけで、小生の胃はパンパンに腫れ上がり入らなくなったのである。 韓国人は、私にお金を一銭も払わせようとしない。そんな訳で、5日間特にお金を使うことはなかった。そして毎晩、朝方まで飲んで飲まれて胃腸がおかしくなった。昼間は、夜の飲み会に備えて、二日酔いを少しでも抑えるために夕方まで泊めさせてもらっている家で眠るのみであった。まるで、狼が傷を癒すように、じっと時が過ぎ、体が癒えていくのを持っていたのみであった。館そして、ソウルから、我が祖国ニッポン(全4回シリーズ終了)館 自分は、昨日の日記で、調子にのってソウルで昼間は一日中寝ていたと嘯いてしまいましたが、1度は、散歩に連れて行ってもらいました。泊めて貰っていた学生の後輩であり、彼女を連れてきており、学校では日本語も勉強しており、日本語を少しばかり話す人でした。名前は伏せておきますが、ドンボーという名前でした。泊めて貰っていた親父に日本語で毎日、「オマエタベル」とか戦中の名残で怖い言葉で更にニコニコしながら片言の日本語を話してくれていたために、ドンボーの日本語は敬語が散りばめられとても優しく感じました。ソウルタワーに行きました。 ドンボーの彼女は日本語と英語が出来なく、自分は英語と韓国語ができないので、ドンボーの彼女はニコニコしているだけでした。そこで、素早くドンボーはニコニコしながら日本語で言いました。「私の彼女は、あまり、うつくしくありません」自分は少し顔が引きつり、ドンボーの彼女の顔を見ました。ドンボーの彼女は微笑み返しで、更にニコニコっと笑っていました。 すこし、顔が凍りついた自分に気がついたドンボーは、更に得意の日本語でいいました。「そのベンチで、アンパン食べましょう」ドンボーは、誠にオカネのない自分がいうのも何ですが、彼自身も学生の分際でお金の持ち合わせが少なく、自分に食糧を供給するのに苦労していたようです。是非、日本に来られた時には、酒池肉森全漢千席の世界にご招待したいと心から誓ったのでした。 ソウルタワーからの景色のことは、今ではすっかり忘れてしまいましたが、そこで声をかけてきた女性が、今まで会った日本語を話す外国人で最も日本語が流暢な人でした。顔もアジア人なので、日本に紛れ込んでも、絶対にガイコクジンとは分かりません。分かったとしても絶対在日韓国人と思われるぐらいの熟練度でした。 結局、自分は、その帰りに、レコード屋でストーンズの「エモーショナルレスキュー」を買うほどの余裕ブリを発揮しました。700円でした。残りは、300円です。 そんなこんなで、自分は、空港までわざわざ送ってもらい、凱旋帰国を果たしたのでありました。大阪空港では、自分は、金がないのどうすべきか考えていたのですが、外に出る一番近い税関検査の所に並びました。他人が自動ドアから出て行くのを見ると、自動ドアの向こうに2人の友達が自分なんかの溜めに迎えに来てくれていました。そして、他の列の人々はどんどん税関を抜けていくのに対し、自分は犯罪者被疑者非国民の如く、唾棄されるが如く、目の敵にされるが如く、税関員にあれこれ拷問質問を受け、荷物を事細かにチェックしていただくのでした。他の人々がどんどん出て行き、そのたびに自動ドアが開き、2人は、最初は手を振ってくれていたのですが、そのうち心配そうな顔になり、仕舞いには大笑いしていました。税関員の人も気がついたようです。「お連れ様ですか?」そんな自分もようやく、税関無事抜け、2人に再会し、開口一番、帰りのバス代がないことを赤裸々に告白し、韓国ウォンを両替して、その201円を2人に前金として渡すのでありました。館