私を縛らないで下さい パート2
網走刑務所関係の本は何冊か読んだことがあるが、「脱獄」(吉村昭)は面白かった。まあ、こちらは白鳥由栄にことなのだが。alex99さんには、やっぱり修行僧らしく、この黄色の作務衣(XLサイズ、手錠はSサイズ)にしようかと思います。郡山ハルジさんには、右の龍のモンモンの入った服というか、皮をプレゼントしたく思います。小田切さんには、この戸建式独房に愛と共に隔離軟禁しようかと思います。達人放浪さんは、一番奥の人間にしようかと思います。「おまえが判決くだせや」と囚人に諭してもらいます。解説 白鳥由栄は、明治40年青森県で生まれた。 豆腐屋を営み裏で泥棒をして生活していた。 昭和8年、盗みに入った家で発見され、殺人をおかしてしまう。 2年後、その時の共犯者が別件の「土蔵破り」で捕まったのを新聞で知る。 義理堅い白鳥は自首した。 昭和10年、青森刑務所に移送される。 青森刑務所脱獄では、看守たちは白鳥につらくあたった。 「お前のような人殺しは、どうせ死刑だ。早く死んでしまえ」と 白鳥を馬鹿にし、顔にタンを吐きかけた。 白鳥は腹を立て、脱獄を決意した。白鳥は独房に収容されていた。独房の外に出る機会は少ない。脱獄の為,辺りの観察はおこたらなかった。そなえつけの便器から便捨て場に汚物を捨てに行く時、この小窓と鍵穴の位置を観察した。鍵穴は小窓から手を伸ばせば届く位置にある。ある日、便器の汚物を捨てに行く時、白鳥は針金を見つけ、看守の目を盗んでこれを拾った。針金は汚物入れの底に、ご飯でノリ付するなどして見つからないように、持ち歩いた。白鳥は小窓から手を出し、鍵穴に指を押しつけ鍵穴の形をうつしとり、針金を曲げ、さし込み、何度も試行錯誤し、とうとう合い鍵を作ってしまった。看守の気がゆるむのは真夜中の交代時間で、巡回に15分間のわずかな時間があく。白鳥は、この時間の隙間を狙ったのだ。白鳥の手製鍵は、独房だけでなく、廷物にも、裏門にも全て合った。白鳥は針金一本で脱獄を果たしたのである。青森市内は大騒ぎとなった。県の警察官の半分が捜索に動員された。 民間人も非常警戒にあたった。白鳥は山で山菜を食べて腹をこわしてしまった。 墓地にいるところを発見され、脱獄より3日後、あっけなく逮捕された。 昭和11年、青森地裁で準強盗殺人と逃走の罪で無期懲役判決が下る。共犯とされた男はすくに下獄したが、白鳥は控訴する。 この強盗と殺人は白鳥が主犯ではなく、共犯とされた男が実は主犯だったが、白鳥を売って自らの罪を軽くしたのだ。警察も無理矢理に白鳥を主犯としたという説がある。しかし、白鳥は生涯仲間について沈黙を守った。 昭和12年宮城刑務所、小菅刑務所(現・東京拘置所)に移監される。白鳥はこの小菅で小林良蔵戒護主任と出会う。小林は白鳥を普通の囚人として扱った。白鳥は小林戒護主任に恩義を感じた。しかし、当時は第2次世界大戦の最中であり、戦時罪囚移送令に基づき秋田刑務所へ送られた。 白鳥の名は脱獄をした男として知れ渡っていた。秋田刑務所では白鳥を不良囚として厳重にあつかった。鎮静房という特別な独房を用意していた。鎮静房は、明かり取り天窓があったが、昼間でも光が射ささず、照明は薄暗い20ワットの裸電球がひとつ。璧には銅板か張られ、扉には食器を出し入れする小窓すら無い完全な密室。手錠を外すのは、食事とトイレの時だけ、白鳥は、何度も手錠を外してくれるよう、鎮静房から出してくれるように申し入れたが、看守は聞き入れなかった。 冬になると手錠は外されたが、コンクリートの床は凍りついていた。 「毛布をもう一枚下さい」という要望も無視され、やむ終えず看守の制止を聞かずに体操をし、暖を取った。 昭和17年、白鳥は過酷な扱いと、看守の横暴な態度を直訴したいと考え、再度の脱獄を決意する。白鳥は看守相手に「脱獄するぞ」と小声で言う。その低い声の迫力に看守は威圧された。 鎮静房の璧も扉も破る事は不可能だった。 白鳥は天井に目をつけた 天窓には鉄格子が付いていたが、腐りかけていたのだ。白馬は璧の隅を使って、璧をよじ登る事を考えた。角に立って壁に手と足を踏ん張り、登ろうとした。看守が寝静まってから何度も練習して、登れる手応えを得た。練習している時、天窓のワクに取り付けられていたブリキ片と錆びたクギを見つけた。ブリキをクギで突き刺して、ギザギザに尖らせ、即席のノコギリを作った。白鳥は天井に上り、足で体を支えながらノコギリで天窓のワクの四方を切った。看守の交代時間を狙い、1日に10分ずつ地道に作業を進める。ノコギリとクギは敷物から抜き取った糸で天窓の木枠にくくりつけた為、看守に見つかる事はなかった。 地道な作業により鉄格子を切り離す事が出来た。白鳥はワクを元に戻し、時を待った。脱獄当日午前0時、暴風雨にまぎれて、白鳥は脱獄を決行する。看守の交代時間で15分の隙があった。璧を上り、天窓を外して屋根に出る。地上に飛び降り、刑務所の裏手に回って中庭を飛び越え、刑務所の工場の丸太を足場にしてレンガの塀を越え脱獄した。 その後、白鳥の行方はまったく知られなかった。だが、脱獄から3カ月後、白鳥は、東京の小菅刑務所官舎の小林良蔵戒護主任宅に姿を現した。小林は白鳥を家に上げ、熱い茶と芋を出した。白鳥はうれし泣きした。白鳥は小林に秋田刑務所の状態を切々と訴え終わると、翌朝、小林戒護主任に付き添われて小菅警察署に自首した。昭和18年、東京区裁で逃走罪に対し懲役3年の判決が下った為、網走刑務所に移管された。網走刑務所でも白鳥に対する扱いは最悪だった。白鳥は四舎二十四房に収監された。そこは凶悪犯用の特別房だった。白鳥は看守達の横暴な態度に激怒し力まかせに手錠をひきちじった。人並み外れた力により、そんな事が度々あった。その度に手錠はは丈夫なものになり、4回目には足かせをはめられた。手錠も足錠も鎖玉がつき、ボルトで溶接止めされていた。手足の自由を奪われて独房の床に転がされた。食事は食器を口でくわえて食べねはならなかった。夏は厚い綿入れの服を着せられ、冬は夏物の服一枚にされた。網走の冬は死ぬほどの寒さだった。用便も垂れ流しで自らの糞尿にまみれていた。1週間に一度、看守が体を水拭きするだけで、風呂には一度も入れてもらえなかった。その後の札幌高裁の判決文に「身体の自由か効かず、手錠は手首に食い込んで腐蝕し、骨が露出し、糜爛(びらん)した液の下からウジが湧き出る有様であり、冬が来ても単衣一枚のままという冷遇であった」とある。手錠が食い込んだ傷か膿んで、そこからウジがわいたというのである。人間扱い・・・いや生き物としての扱いではなかった。この間、白鳥の脱獄計画は着々と進んでいた。獄舎は木造だったが、秋田刑務所よりもてごわかった。白鳥はまず、手錠を根気よくぶつけ、かみつき、ゆるめるのに成功した。次に、白鳥は扉についている監視口に目をつけた。監視口は鉄格子がはまっていた。白鳥は毎日、根気良く鉄格子を揺さぶっていた。3ヶ月が経ち、鉄格子はガタつきはじめ、脱獄の時を待った。ある日、停電があり、看守の交代か遅れた。白鳥はこのチャンスを逃さなかった。10時頃、白鳥は事前に緩めておいた手錠、足錠を外し、ふんどしひとつになると、監視窓の鉄格子を腕力で外した。 白鳥脱獄の知らせが伝わると、街は大騒ぎとなった。軍隊が出勤し、民間人も召集され、海岸線の捜索と山狩りが行われた。だが、2カ月にわたる捜索にも関わらず消息はつかめなかった。脱走した白鳥は2年の間山にこもった。昭和21年学校から新聞を盗み、日本の敗戦を知った。日本が戦争に負けるなど信じられなかった。白鳥は自殺を決意し札幌に向かう。 札幌を目指す途中、米兵にべったりとくっついている女を見て死ぬ気が崩れて行く。その頃、砂川ではスイカ泥棒が多発しており、そこの農家の人も畑を見張っていたのだ。札幌に向かう途中目立たないよう畑沿いを歩いていた白鳥がスイカ泥棒と間違えられた。棍棒をふりかざした男に問答無用で殴られ続けたため、白鳥はついにこの農夫を殺してしまい、殺人として逮捕される。 札幌地裁において殺人、加重逃走罪で死刑判決を受ける。白鳥はこれは正当防衛であって殺人ではないと控訴する。 札幌刑務所では2人1組の2組交代の看守が、つきっきりで白鳥を監視した。ここでも白鳥を制圧の方針だった。看守は拳銃を携帯し、逃げるそぶりかあったら、射殺しても良いとの指示も下っており、緊迫した状態だった。白鳥の頭には脱獄の文字しかなかった。札幌刑務所の独房は、扉、天井、採光窓、鉄格子を補強してあった。その上に24時間の監視であった。白鳥に残された道は床しかなかった。白鳥は、床に敷かれたゴザの芯を抜き、先にツバをつけて床板のすき問から床下を探った。芯の先に土がついていた。板を外せば逃げられると確信した白鳥は、洗面用の桶の鉄タガを引きちぎった。そして、検事の取調の時に部屋のドアのクギを抜き取り、房に持ち帰った。このクギでタガに穴を開け、ノコギリを作った。白鳥は、これで床を切って行った。独房点検時には、クギと鉄タガは便器の裏底に隠し、床板の切り跡にはホコリと飯粒をまぜて塗りつけ目立たなくした。決行の日、床板を切って、床下におりた。白鳥は食器と手で士を掘り進み、2メートル掘った所で外に出た。雪が積んであった為、中塀は簡単に越えられた。外塀も、看守に気づかれずに越え、脱獄は成功した。 白鳥は、山中で9カ月あまりの逃亡の後、札幌市琴似町で職務質問をした警官の態度がよかった為自ら脱獄囚「白鳥由栄」である事を名乗り、逮捕される。 札幌高裁で砂川町の殺人を傷害致死とし、加重逃走罪と併合で懲役20年の判決か下る。正当防衛ほ認められなかったが、死刑判決はくつがえされた。 昭和23年、GHQ札幌地方軍政本部の命令で、府中刑務所に移送される。府中刑務所では所長が白鳥を普通の囚人として扱う方針を出した。白鳥はこれに応え、模範囚となる。刑務所内で働くのは、府中がはじめてだった。昭和36年、刑期を勤め上げ、仮出獄となった。