R-58指定 前栄原社交街 吉原
アメリカのルート66のように、東京大阪の国道1号線のように、沖縄島の背骨を担っているのが、ルート58である。この道は、海に消え、再び奄美大島に姿を現し、そしてまた海に還り、鹿児島に現れるという国道なのである。本島西側の那覇から北端まで続く道であり、元米軍優先道路であり、概ねのビーチリゾートがある。那覇空港から川を渡ると市内であり、すぐに58号線は始まる。いきなり、辻エリアがあり、戦前には2,000人の遊女がいたというエリアであり、現在も波の上では、東京で言う所の吉原に相当する特殊浴場が現れるのであるから、いきなり深い世界に迷い込むのである。波の上というぐらいなので、裏側はすぐにビーチとなっており、地元民がビーチパーティ(毛遊び)が夜中にピークを迎えることであろう。(次回の沖縄はこれをする予定である) 58号線から少しハズレて、宜野湾を横断する無意味泊大橋があり、沖縄開発意味なし土建国家を今後も目のあたりにする第一弾になるのである。 国場川を河口から数百メートルいくと、そこはマングローブの沼、漫湖がある。宿泊したのは、飲み屋街の真ん中、松山であるが、松山久米辻あたりの飲み屋街であり、2大沖縄暴力団事務所地帯である。沿道には、本土にはないA&W(昔近所にあったけどなあ)やヌーヤル(なんてこったという意味)バーガーやゴーヤバーガーの食えるジェフというハンバーガーショップがあるが、ドライブすスルーだと思いきや、暑くて車からも出たくない、車を停めたまま中でバーガーをぱくつきたいというわがままなシマンチューの為になのか、ガレージごとに、注文ブースが設けられていたなんかする。商品は店員が走って持ってくるという合理的なシステムであり、何故か、年齢層の高い女性が多いのである。 朝方、飲み屋街を歩いていると、仕事を終えた飲み屋のねえちゃん諸氏が仕事を終え、託児所に預けていた子供を手にひいて歩いている姿の行列を目にして、公式が成り立ってきた。10代で結婚→子供→旦那働かない→23歳で離婚→食えないので夜の仕事→年齢もいき、飲み屋をやるか、近所のファーストフードなどに就職(の場合は一族郎党の援助あり)→年金ぐらしで、趣味で居酒屋をする。何せ、ファーストフードの店の中に風俗に就職する求人情報誌がいっぱい置いてあるのが、将来性がありシュールでもある。そして沖縄港である。学生の時なら利用していたであろうが関西で40時間弱、東京で50時間である。 大謝名、大山、伊佐にかけてはチャイナタウンであり、中華料理の店が並ぶ。後輩奴隷1号はこのあたりに住んでいる。そんな訳で大謝名の交差点を右に曲がり、住宅街を500メートルほど行くと、左に交番があり、住宅街の中に突如、前栄原社交街というアーチが現れ、車でグングン100メートルぐらい細い住宅街を走ると、間口1件程度の女郎屋が出現し、若いのから年寄りからべっぴんから地雷まで飾り窓状態で現れるのである。車で来る輩も多いのか、この細道が渋滞しているのでる。もう、夜中ともなれば毎晩大変なパニックになっていることであろう、奴隷後輩1号に、今度私が来るまでに全ての店を制覇しておくように、話聞くからと厳命しておいた。 さらに車を進めると、北谷(チャタン)嘉手納と続いていくのである。かつて、北前というところは米兵向けフィリピンパブがいっぱいあったというが、今はない。左手にはアメリカンビレッジといった、ウエストコーストの真似をした一帯が続くが、車内や地図帳を見る限りただのショッピングセンター街であり、健康的なものにはどうも触手が動かない真面目な私であった。同時に後方座席に寝る大学同僚は、昨日の二日酔いと真剣勝負の戦いをしている最中であった。まあ、この辺りのビーチでも毛遊び(もうしあしび)が盛んなようである。 嘉手納ロータリーを右に渡れば、昨日紹介した嘉手納基地を一望できる「道の駅かでな」がある。沖縄市 𠮷原 コザ十字交差点嘉手納ロータリーを越えて更に北上すると、いよいよ、リゾート街道(万座ビーチとか)や座波岬や琉球民族村が続くが、数回沖縄に来たことがある私はまだ残念ながらビーチには行ったことがない。いずれ、沖縄海洋博跡の廃墟には行ってみるつもりなのであるが。それを過ぎると、名護である、ヤンパル(山原)となっていくが、我々は、そのまま対岸の廃墟寸前の金武を目差し(昨日日記)、コザを目差したのであった。コザ十字路付近にも歓楽街があり、柄のわるそうな黒人がうろうろしており、やばそうな雰囲気がしたのは、大雨が降ってきたからに過ぎないのかも知れない。(次回は山原を目差す)・・・次号(健全号)に続く。自動販売機も蛍光色、なぜだ?