小田実逝く
小田実の本を10年ぶりぐらいに買ったばかりであった。何事も物事には裏表がある・・・。 大学時代、「何でも見てやろう」を皮切りに、十数冊の小田実の本を読んだ。働いてからは、遠く離れていたような気がする。講演会にも行った。いつも苦虫をつぶしたような顔をしながらも、結構、大阪人で、お金儲けも好きだと素直に語っていた。その講演会のバックバンドじゃなく前座に出てきたのは、当時ピースボートの主催者早稲田大学7年生の辻元清美であった。先日、選挙カーを見た。当時小田実は予備校(代々木ゼミ)の先生をしていて、一番前に座っていた辻元に質問をしたそうである。「君、韓国のことを英語で何と言う?」韓国・・・受験英語には出てこない単語である。当時サッカーなどの交流もなく、韓国人も海外渡航自由化がまだだったので(自由化したのは、1990年頃だったと思う。)そんな単語は答えられなかったそうで、こっぴどく皆の前で叱られたというエピソードを披露していた。 しかし、北朝鮮で、すっかり評判を落としてしまったよなあ。あんなに北朝鮮を誉めてたからなあ。まあ、1970年ころと言えば、社会主義も輝いていたからなあ・・まだ知識人には仕方ないことなんだろうか。小田実は、西宮市民だったので、阪急電車や大阪の飲み屋街で何度か見た。阪急電車に乗った小田実は、ポケットに手を突っ込んで、微妙だに動かず、風景を見て何かを考えていた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』移動: ナビゲーション, 検索小田実(おだ まこと、1932年6月2日 - 2007年7月30日)は日本の作家、平和活動家。元・代々木ゼミナール英語科講師。ベ平連創設者。九条の会の呼びかけ人の一人。妻は在日朝鮮人(北朝鮮国籍)の画家玄順恵(ヒョン・スンヒェ)。2007年7月30日、胃がんのため東京都内の病院で死去。→ムチャ、アップも早いなあ・・・ 作家・評論家で、市民運動家としても知られた小田実(おだ・まこと)さんが三十日午前二時すぎ、東京都中央区の病院で死去した。七十五歳。大阪市出身。 妻の玄順恵(ヒョン・スンヒエ)さんは画家。 東大大学院を経て米ハーバード大学大学院に留学。一九六一年、ヨーロッパやアジアを無銭旅行した体験記「何でも見てやろう」を刊行、空前のベストセラーとなる。 戦時中に大阪大空襲を体験し、「ベトナムから遠く離れて」「HIROSHIMA」「海冥」など、戦争と社会、民主主義のあり方を問う作品を書き続けた。九七年に「アボジ」で川端康成文学賞を受賞。 評論やエッセーも手がけ、「難死の思想」「私と天皇」などを発表。 執筆にとどまらず、六五年には「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成、ベトナム反戦運動を展開するなど、市民運動の中核として活動した。九五年には阪神大震災で被災したことから、被災者支援法制定を訴える運動に取り組むなど、一市民の立場から盛んに発言、行動した。 二〇〇四年、憲法改正に反対する「九条の会」を評論家の加藤周一氏、哲学者の鶴見俊輔氏らと結成。〇七年三月には、フィリピンでの権力犯罪を追及する「恒久民族民衆法廷」の判事役を務めるため、オランダ・ハーグに赴いた。帰国後にがんであることが判明し、都内の病院で闘病生活を送っていた。 著作はほかに「アメリカ」「現代史」「ガ島」など。「小田実全仕事」(全十六巻)がある。 一九九六年五月から九八年六月まで、本紙に毎月「西方ニ異説アリ」を寄稿、〇四年には「随論『老いる』」を連載した。(東京新聞)今回の選挙の結果を知って逝ってしまったのだろうか。合掌。PSこんどこの半島を攻める。佐田岬。