1990年代前半のHOWTOGOTHERE HOWTOSTAY HOWTOEAT ボルネオ島ケースの場合
ネットはない時代どころではなく、地球の撃たれ方マレーシア編もまだ創刊されてなく(タイ編が1,2年前に創刊された)、ガイドブックは探し当てたロンリープラネットのマレーシアボルネオ編ではなく、東南アジア編であり、ジャングルの詳しい地形なんかまったく分からないので、大学図書館の世界地図の詳細版をコピーしたりして、出国前事前収集を終えていた。旅行中はやたら旅行者と知り合うようにして、(特に反対方向から来た旅行者)情報を収集交換するのだが、ボルネオ島ではついに一人の旅行者にも会わなかった。まず、ボルネオ島の行き方であるが、マレー半島からの船は便数が少ないか、ないかで速攻であきらめた経緯があるが、マレーシアからは国内線になるので、マレーシア入ってから買うかと思っていたのだが、これが、どう情報収集したのか覚えてないが、当時の格安航空券のメッカは香港やバンコクであったが、一番安くいける方法は、シンガポールの格安チケット屋でマレーシアボルネオ島行を買うことだと判明した。出発地はシンガポールの対岸のマレーシアの町、ジョホールバルからである。ジョホールバルで買うより安いとのことであった。そういうことが、バンコクかどこかで判明し、列車とバスでマレー半島を縦断し、シンガポールに入り、何故か安宿の主が、よっしゃ、それなら俺に任せとけ、と少しの手数料を取りながら手配してもらったのであった。マレー半島ジョホールバルからボルネオ島のクチン、ボルネオ島のブルネイ国と隣接するマレーシアの町ミリからマレーシア首都クアラルンプール行のチケットである。 宿屋の主は、クチンまでのチケットエコノミーが満席だったので、ファーストクラス買っといたよ(多分2クラス制)といわれ、えーそんな金ないよと言ったが、主はいやいや2,000円しか変わらなかったからいいだろといった。まあ1万円もしない中の2,000円だからでかいといえばでかいのだが、もう買ってしまったものは仕方ないし、今後もハイクラスに乗る機会もなかなかないぞ、というので、了承したのであった。シンガポールからマレーシア行民間バスの乗り場とバス番号も主から聞きだした。ジョホールバルバスターミナル周辺から空港への行き方であるが、さすがに、もう35キロのボートがあるので、タクシーで行くかとうことになり、タクシーでいく、重量の追加料金も何十円か取られた。(シンガぽーるからは遠いので、バス断られたが、3,4代目で、無理矢理ボート乗せて入った)クチンには夜についたが、宿の情報は全くない。多分、荷物があるからタクシーで街中にきたのであろう。そこから、一人は荷物見張りで、あとの3人は歩いて宿探し、交渉である。安宿はなさそうということは分かっていたので、ツインで4人泊まる交渉である。(2人は床に寝る)値段は、だいたいどこも最低3~4,000円はしたので、3人が探してきた最安値のところに行く、行って何か話が違うなといって、やっぱ泊まるの止めるわ、といいまた宿を出て、また探して、泊まったように記憶する。床もちゃんと絨毯敷かれてたし。それに隊長兼最年長の私も強権発動せずに、民主主義を徹底してジャンケンで、床かベッドを競い合った、ジャンケンで。(ソファなし)何故、シブ経由でミリに行くのか、何故ジョホールバルからミリまで飛ばなかったのかは、今となっては不明だが、とにかく飛行機が安かったということだったのだろう。但し、事前に分かっていたことは、当時クチンからミリまで、まずシブには海岸線が鋭く入り組んでいるので、船のほうが早いことが分かっており、シブからミリ(ボルネオ北側海岸線)は、これが実は日本での事前情報では、道がないので、またここから船でミリに向かう計画であった。大学図書館にある詳細地図でもジャングルに道なんかねえ、むしろ、ジャングル奥地のほうが森林伐採のために道あるよ、という感じであった。まあ、その前に中学校のときの世界地図コピーしたぐらいだけど。ブルネイ(英)ってなってたけど。ベトナム2つあったけど。クチンからシブへの船もどれが何か分からないが、出発前日の夕方にチケットオフィスを聞いて、買っていたのだが、これまた出発の桟橋を間違えて違う船に乗った。同じ場所へ同じ時間に出発するとは思わなかったので(なんだか、似たような時間帯に他社便が同じ目的地に飛ばしていて、何かあったときに補完しあいましょう、みたいなことだったのだろう)、2倍の船代を払ったという結果になったわけである。シブからミリまで多分、300キロぐらい離れているのだが、船を下りて更なる船を捜そうとしたら、バンが「ミリまでいくぞ」と呼び込みをしていたので、陸路もあるのか!道が出来たのかと喜んだが、まあ300キロは未舗装の道を11時間。前述の通り検問も3回、検問で質問されたら隣の村から次の村へ行けと言われていた。パンクもする。道路の黎明期だったんだなあ。ミリも情報がなかったので、荷物見張りを残しホテル探しであった。安いドミトリーのホテルがあったんで、行っていると、ハンモックや3ダンベッドにぎっしり出稼ぎ労働者が詰まっていて、ギロっと何十の目が光ったので止めておいた。何セ今回の旅行はボートが35キロあり、一人でもなく身軽ではないのだ。一人旅なら泊まっていたかも知れない。翌朝、バス停に行ってみて、バスの時間を確認したのだが、これが団体旅行の悪いところで、昼間からユックリ飯なんかボヤボヤ食ってたらバスいっちまうのパターンである。バスステーションで飯食ってバスの時間まで有意義に過ごしていたというのにである。結局バスステーションからタクシーであるが、バラム河からの最終ボートの時刻はどうやって調べたのあろうか、多分、ミリで調べたのであろう、どうやって調べたのかは覚えていない。とにかく、現地着いてからか、その前の都市で調べるのであった。それでないと分からなかったのである。今考えると、要は聞きまくったということなのだろう。シブは、まあ通過点としても、クチンとミリの地図はどこかから現地で仕入れ、ミリなんか何の観光地もなかったけど、クチンは博物館にも行った記憶がある。まあ、時間がかかったなあということであり、旅行者と出会うと、とりあえず、どこから来たの?どこがいい?と情報交換するのが普通であった。今みたいに誰とも話さず旅行する、って不可能だったなあ。 今思い出したが、オデッセイってのがあったなあ。(旅行人は、もう少し先でもう働いていたので、それ持って旅行したことがない、というか、買ったこともないのだなあ)