『死んだ女の子』
『死んだ女の子』 詩・曲 ナジム・ヒクメット1)開けてちょうだい 叩くのはわたし あっちの戸 こっちの戸 わたしは叩くの 怖がらないで 見えないわたしを 誰にも見えない 死んだ女の子を2)わたしは死んだの あのヒロシマで あのヒロシマで 60年前に あの時も7つ いまでも7つ 死んだ子は決して 大きくならないの3)炎が飲んだの わたしの髪の毛を わたしの両手を わたしの瞳を わたしの身体は ひとつかみの灰 冷たい風に さらわれていった灰4)あなたにお願い だけどわたしは パンもお米も 何もいらないの 甘い飴玉も しゃぶれないの 紙ッきれみたいに 燃えたわたしは5)戸を叩くのは わたし わたし 平和な世界に どうかしてちょうだい 炎がこどもを 焼かないように 甘い飴玉が しゃぶれるように 炎がこどもを 焼かないように 甘い飴玉が しゃぶれるように■ 全壊全焼の境界くっきり ■■■ 広島平和文化センターが十九日、米国立公文書館カレッジパーク分館(メリーランド州)からの入手を公表した広島原爆の記録写真二百二十六枚は、オリジナルフィルムやプリントの複製で精度は高く、これまでにない空撮・地上からのカットが多数含まれている。米軍が「原爆の効果」を調査するために撮った写真は、ヒロシマにとっては「原爆の悲惨さ」を伝える被災資料である。原爆資料館資料調査研究会メンバーで、写真家の井手三千男さん(62)の協力を得て、浮かび上がる被爆の実態をみる。 (1)元安川右岸、中島本町(現在の平和記念公園)から見た原爆ドーム。奥の橋は、原爆投下の照準点となった相生橋。手前は元安橋で、花こう岩の親柱の一部(中央奥)と、欄干すべては爆風で落ちた。左端に米国戦略爆撃調査団の兵士が見える(2)天満川(左)と福島川(右)(戦後に埋め立て)に挟まれた中広町の全壊・全焼の際が分かるカット。グラウンドが見える市立中(陸軍幼年学校跡に移転後、基町高)は校舎が押しつぶされ、約2時間後に猛火で延焼した。右端は山陽本線、左隅は市内電車が通る横川新橋(3)焼け残った広島陸軍幼年学校の防火壁と、鉄筋の階段。広島城址北側にあり、現在は門柱が修復され元の正門に建つ(4)山陽本線の南北に広がる白島地区(右側)の全壊・全焼が明りょうなこれまでにないカット。爆心地1.6キロの神田川鉄橋(手前右)では、走行中の貨物列車が爆風で脱線、炎上した。左側が中国軍管区司令部があった広島城址(じょうし)。その右斜め下は広島逓信病院(5)爆心地900メートル、廃虚の斜屋(ちぎや)町(中区堀川町)に残った久保田本店の煙突。上部は原爆資料館で展示されている。左は旧中国新聞社。113人の犠牲者を出したが、11月4日に広島の企業の中で先駆けて本社復帰を果たす。現在は三越広島店が建つ。右は旧日本勧業銀行広島支店(6)焼けた広島駅構内。救援・救護などで町村部から駆けつけた在郷軍人、義勇隊員らとみられる。右側の柵(さく)は被爆後に作られたといわれ、奥は事務室(7)皆実町1丁目(手前)から西方面。中央は京橋川。ガスホルダーの残がいが写る広島瓦斯工場の東側は、市内電車の通りで遮られ延焼を免れた。千田町(京橋川の奥)を撮った別カットとともに、皆実・千田地区の全壊・全焼の際が分かる。左端が爆心地2・2キロの御幸橋下は現在。右側の東千田公園の中にあるのは、広島大の移転後も残る被爆した旧広島文理科大(理学部)校舎(8)比治山(手前)の北側と東側の段原地区は爆風で瓦が飛んだが、延焼を免れた。猿猴川(中央)から東練兵場(右上)にかけて風の影響で焼失の飛び地があったのが分かる。左上は広島駅下は現在。グラウンドが見える段原小(左)と荒神小(右)の位置は同じ 『ヒロシマ60th』で8月6日には広島で歌うことになっていたのですが・・・中止になったようです。なんとしても歌い続けたい歌なのです。