松本道弘ブログ 元祖ナニワ英語道
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(2/24のつづき)白蛇とは?創始者がこの地に断食道場を建てようと決めたきっかけが、ここで出くわした白い大蛇だったのだ。夢とは不思議なものだ。断食道場(大学)での体験は、国民が飢餓状態で追い込まれたときにきっと役立つ。人は水さえあれば、2週間ぐらいは、元気で生き続けられる。しかもほとんどの病魔は治り、健康になる。困るのは、病院だけだ。この「自然治癒」という考えは、英語道の哲学とも一脈相通じる。(つづく)
2011年02月25日
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(2/23のつづき)しかし今の断食道場には、「行」がなくなっている。美容のため、ダイエット、アトピーを治すためといった人たち(ほとんどが女性)ばかりで、精進のためという入場者(男性が中心)が消え失せ、散歩と友達づくりが目的といったレジャーランド化している。創始者が憤っておられたのではないだろうか。もう大学なんか、と失望されていたのでは。(つづく)
2011年02月24日
(2/21のつづき)1月7日、夢の中で白い大蛇が現れた。日本刀で斬ろうか、斬るまいか悩んでいる。なぜこんな夢を。潜在意識をたどってみる。 二十年ほど前に、信貴山断食道場でよく話し相手になっていただいた、吉田修道長が、亡くなる前に私に、「ワシは断食大学を考えておる」と語られたことがある。(つづく)
2011年02月23日
(2/19のつづき)1月6日、断食大学という構想が再浮上。断食は人間を練る。英語聖人の域を目指している私はノーネス・チャンネルで恥をかき続ける。不人気で降板という憂き目に遭っても潔く受ける。私一人の責任なのだから。 断食で聖人となった人は多い。ガンジー、マザー・テレサ、ブッダ、イエス・キリスト、モーゼ、モハメッド、ソクラテス、アリストテレス、ピタゴラス、ダライ・ラマ、そして松本道弘(すみません)。蛇足ながら。私にも志がある。今、高森桃太郎(大阪紘道館塾頭)に一週間ぐらい断食をしないかと勧めている。命令ではないが、やつなら自発的にやるだろう。(つづく)
2011年02月21日
(2/18のつづき)これが、私が書かねばならない、新武士道。討ち入りを果たした大高源吾は決してハラ(本懐)を明かさなかった。このスレ違いの美学。この美学を英語で外国人に伝えるには、名人級の英語力(ICEE初段級の達人でも無理だろう)が要る。私が好きな中村獅童は「歌舞伎と武道には通じるところがある」という。映画なら仲代達矢、歌舞伎なら中村獅童と心に決めている。エビゾウかカニゾウか知らないが、こちらは救ってやりたくなるが。(このセリフはノーネス・チャンネルのサムライ・トークで吐いた)(つづく)
2011年02月19日
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(2/17のつづき)1月5日、断食道場を抜け出して、松竹座で歌舞伎を見る。『男の花』がよかった。私も花道、死に際を意識しながら、充実した毎日を送っている。 年の瀬や 水の流れも 人の身も......武士道も消えていくのか。新渡戸稲造は、そう考えて悲しんでいた。大高源吾なら、こんな返歌を残すだろう。 明日待たる その宝船......(つづく)
2011年02月18日
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(2/15のつづき)「文藝春秋」の新年号で、藤原正彦が「英語より論語」だと吼えている。この数学者にロジックがあるのかと疑った。論題として成り立たないのだ。「英語より中国語」とか、「老子より孔子」ならわかるが、こんなロジックで世を迷わせてはならない。いくら有名人だからといって――。(つづく)
2011年02月17日
(2/14のつづき)とにかく断食中は、独りだけ(alone by myself)だから、独りでいいアイディアがポンポン産まれる。ひとりでも、そばに自分がいる――by myself。断食4日目、3キロぐらい減った。ビデオで大森英桜博士の健康講座を聴いた。玄米道と武士道という英文エッセイを書く。論理が冴えてくる。(つづく)
2011年02月15日
(2/13のつづき)語学の天才グレゴリー・クラーク博士(国際教養大学を辞めた)は、deep listening という言葉を用いた。私のdeep readingはvalue-free(価値観を捨て、ゼロの視点で考える)読書法だから、クラークと私がノーネスで語り合えば、きっとヒートする。かつてNHK教育テレビで30分間、英語で語り合ったことがある。どちらも髪の毛が黒かった頃だ。教育論をめぐり、壮年同士がディベート対決するのもおもしろいだろう。(つづく)
2011年02月14日
(2/12のつづき)3日目は腹読(abdominal reading)について英文エッセイを書く。前年遊読(ラテン語のludic reading)という言葉をTIMEから学び、さかに吹聴したものだが、今年「腹で読む」腹読(アブドミナル・リーディング)という造語が産まれた。音読でも、黙読でもない、読んだ内容をじっくり噛んでも暗記しようとはせず、腹の中に収めていくという読書法だ。(つづく)
2011年02月13日
(2/10のつづき)年始に山に登りたくなり、信貴山断食道場へ「行」に出掛けるのも、私の深層心理の中に山を神と考える狼信仰が眠っているからだろう。1月2日、初日から本断食。武士道と断食について英語でエッセイを書いた。英語と日本語と同じ内容のものを同じスピードで書き上げるのも、自ら課してきた「行」である。(つづく)
2011年02月12日
(2/8のつづき)数字で表せない曲者(くせもの)は嫌われる。治世はこういう素直なシープル(羊人間)が好まれる。しかし乱世は、リスクのとれる、強い狼人間が好まれる。 私は昔から狼が大好きだった。めったに羊と群れず、つるまない本物人間に近づいたものだ。ローマを産んだ(BC753)のも、母の狼だった。人間は狼を殺したが、狼は多くの捨てられた人間を育てた。(つづく)
2011年02月10日
(2 /7のつづき)断食日記を書くことも、行だ。本気で英語道を学ぶ気になった行者は100人に1人。この人を鉄人と呼ぶなら、達人は1000名のうちに1人。名人になる人は、1万人に1人。凡人とは100人のうち99人。その人の実力は、筆記試験による点数で判定される。今の世界で出世する人は、凡人の方がいいだろう。社会の採点者は数字をlookする人で、人間力をseeするリスク・テーカーではない。(つづく)
2011年02月08日
年が明けた。武士道が英語道と結びつき、再びゼロから出発することを誓った。誓ったら日記に書く。行だから、忘れたでは済まされない。しかし私を含め凡人は必ず忘れる。人は毎日反省しなければならないのではないか。 日記を欠かさず書き続けることは行だ。ブログを書き続けることも、ワープロ起しをすることも行なのだ。ナニワ英語道のブログを一年間続けてくれた春日さんの「これも行ですから」は今思い出せば、懐かしい口ぐせだった。(つづく)
2011年02月07日
(2 /4のつづき)次に英語の名人。一万人に一人という逸材(a rare bird)だ。師やライバルから逃げず達人になった人でも、名人にはなれない。名人には自分がない。自分を追い越すような恐ろしい部下を弟子にする。迫りくる弟子の気迫を影に、いっさい恐怖感とか嫉妬心を見せない。師という気配も感じさせない。マタギ狩人(ノーネス番組で解説)の「木化け」のできる人だ。その上に「聖人」である。ゼロ段の私が目指している、神人合一の域だ。(つづく)
2011年02月06日
(2 /3のつづき)鉄人には、師も友人もいらない。倒すべきライバルだけでいい。達人になるには、一千人に一人。そのためには、歯が立たぬ師と、手強いライバルが要る。そのような人を意識しながらTIMEを読めば、TIMEが味方になる。英語の達人になりたくなければ、師を求めず、自分が師になり、本を書き、教室で高い所から教え、ライバルを避け、常に自分より劣位にいる可愛い部下だけを集めることだ。そういう「甘さ」を覚えた人は、絶対に達人にはなれない。シロオビ止まり。(つづく)
2011年02月04日
(2 /2のつづき)挑むのも、挑まれるのも「行」だ。武士道は逃げはしない。最近、「行」を意識し始めたのも、今の日本の大学教育制度では、TIMEが読めないとわかったからだ。TIMEが修験道に結びついた。学位より人間だ。 TIMEに挑む鉄人になるには、100人に1人という孤独に耐え、独りでも闘うという気概がいる。(つづく)
2011年02月03日
(1 /31のつづき)しかし人間を鍛える私塾(進学塾は砂糖)は、行を重んじるから塩。明治維新を起こしたのは、人間を鍛える藩校や私塾であった。どうもキリスト教と武士道は似て非なる価値体系のように思えてならない。新渡戸稲造氏は神格化され、雲の上の存在となり、批判されることは許されないが、密教的な(究論を重んじる)私は堂々と論戦を挑む。(つづく)
2011年02月02日
(1 /30のつづき)知行合一。私の好きな言葉だ。英語を研くという陽明学徒の私は、「行」を重んじる。大学は学ぶところ。教授は教えるが、人を育てることはしない。単位を与えるマシーンで、情は無縁なのだ。大学、そして大学院を出て、博士号をとっていれば、卒業後は極楽(現実はそんなに甘くない)というのは甘い発想だ。甘さ(soft love)で稼ぐ、大学のビジネスは、蜜の味がする。(つづく)
2011年01月31日
(1 /29のつづき)「悪いけど、オレの信教など捨てて、踏み絵とやらを踏んで、生き続けてほしい」と。これが密教的なアプローチ。本来、多神教的日本人は、後者を選ぶ。これを陽明学派とすれば、朱子学はもっとかたくなに教えを守る。密教は柔軟だ。だが、「行」が伴うだけに、甘くはない。(つづく)
2011年01月30日
(1 /28のつづき)天草四郎に従った多くのキリシタンは、迫害に耐えた。棄教しなかった多くは、キリスト教信者というよりもサムライ的であった。踏み絵を踏んで死んでいく信者に対して、イエス・キリストはこんなことをいっただろうか。「オレの絵を踏め、死ね。そうすれば永遠の魂が得られるのだ。天国はミルクと蜂蜜の流れる甘いところなのだから」と。まさに甘い(シュガリー)な説得。これは仏教でいえば、顕教的だ。しかし、密教的なアプローチとは何か。(つづく)
2011年01月29日
(1 /26のつづき)トップから命じられ、説得して修行をするのではない。トップのひとりだけがパーフェクトで、あらゆる人間は不完全。たから、トップに逆らわず、羊のように盲従しろというのが一神教。信じれば救われるという他力本願は、甘い。イエスの甦りを信じます、といえばすぐに入信の儀式が用意される。洗礼で顔に水が注がれるだけで、合格。すぐさまクリスチャンになれる。「行」は要らない。だから砂糖なのだ。(つづく)
2011年01月28日
(1 /25のつづき)今年も信貴山断食道場で執筆をする。本断食が終ったあと、補食に入る。その時の一つの梅干の美味いこと。何時間でも食べていられる。塩、ニガリは生命の源泉である。「行」の醍醐味も、塩である。武士道も塩である。平成武士道は、magnetからsaltのシンボルに達した。(つづく)
2011年01月26日
(1 /23のつづき)私塾としての道場は「塩」であった。大学は、私とは縁がなかった国際教養大学を含め、砂糖である。単位というニンジンにくらいついていけば、必ず卒業できるから、甘い。大学は砂糖。道場は、その点、「塩」である。英語を学ぶには、sweat, blood, tearsが要る。塩の味がする。砂糖の資格は試験が終れば、あるいは卒業すれば、すぐに忘れられてしまう。塩味は残る。(つづく)
2011年01月25日
(1 /22のつづき)秋田と同じく縄文度の高い土地柄だけに、意外にTIMEとノーネス・チャンネル(紘道館の必須条件)に飛びつくかもしれない。万博時代(私が英語道二、参段の頃)に、産声を上げた生駒英語道場。ここには、菱研の半田晴久社長(当時同志社ESS部長)が訪れて、みなと同じ英語道を学んだことがある。大物になる器は、この頃から非凡の才を見せていた。(つづく)
2011年01月23日
(1 /20のつづき)紘道館の前身のナニワ英語道私塾ゆかりの地である奈良が熱くなってきた。平成の竜馬、塩原祥之という星が急に輝き出した。塩原君は、汗を流して私のために人集めし、80名集めてくれた。若い人の間では私は無名(過去の人)だが、この若き説得の達人は、ご本人の魅力でここまで集めてくれた。このままでは奈良にも紘道館が産まれそうだ。(つづく)
2011年01月22日
(1 /19のつづき)彼女を自分に寄せ付ける。人間力とは磁力のことだ。The law of attractionは、人間以外の物質をも惹きつける求心力のこと。ツンドクになってもめげない。より一層奮起する、起き上がりこぶしのような人間でなくてはならない。 この3つのどれが欠けても、TIMEをモノにすることができない。だから、紘道館方式で全国にTIME大学(私塾)を広げる必要がある。弘法大師ではないが、全国のホット・スポットに札所をつくりたい。今年はNONESに協力的な秋田と奈良がパワー・スポットになりそうだ。(つづく)
2011年01月20日
(1 /18のつづき)知識体系があれば、英語のシンボルがわかり、内容が情景と共にイメージできる。だから、日本語での読書量、社会的経験などのトータルが試されるのだ。辞書がなくても「流れ」の掴める人は、かなり情報通の人だ。3つ目。人間力。情報力だけでもTIMEは読めない。健全な批判力が伴っていなければ、精読はもとより、とうてい速読はできない。単語力でうろたえている間、TIMEは永遠にクレオパトラ――手の届かない存在――に終ってしまう。(つづく)
2011年01月19日
(1/17のつづき)武士にとり、「恥」は、譲れない意地、つまりprincipleだ。この有料クオリティー番組は、エリートをターゲットにしているだけに、私の方でも「構え」がいる。この番組の最初から、日本人がTIMEを読めないのは3つの理由があると述べてきた。 1.英語力。読み、聴き、話し、書ける四つのバランスのとれた技能のこと。2.情報力。TIMEが日本の雑誌並みに、スラスラ読めるには、情報力がなくてはならない。外国語が得意であっても、通訳・翻訳ができないのも、情報力の問題なのだ。(つづく)
2011年01月18日
(1/16のつづき)自分の出ている画面を見て、突き放してみると、日本語も英語もまだまだだ。しかし私は現場力というか、ハッタリがある。I know now to fake it. 恥ずかしい。しかし、昨日の私より、今日の私、今日の私より、明日の私と。心技体を修行を通じて伸ばし続けてゆきたい。一生、恥との闘いだろう。そのことを考えると、10日間ぐらいの断食行などラクなものだ。昨年の英文日記「武士道」はホームページ(http://www.english-kodokan.com/index01.html)に。(つづく)
2011年01月17日
(1/15のつづき) 今、ノーネス・チャンネル(インターネットTV )という私にとり「はまり役」(a killer post)があり、しあわせだ。 TIMEが届く。手にとったときから収録までまる一日が勝負。カバー・トウー・カバー読むのは、40年前から習慣(second nature)になっているが、一日で日英バイリンガルで解説をすることは、チャレンジでスリルだ。このバイリンガル・ニュース・キャスターは、憧れの仕事でもあった。英語道七段のときから、自らをゼロ段とした。だから、永遠のゼロを意識したことになる。(つづく)
2011年01月16日
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(1/13のつづき) 独りが一番楽しいことがある。I'm alone by myself. でも淋しくない。By myself。私のそば(by)に私がいるんだから。孤独なんかではない。I'm alone. は独行道。Alonenessは「美」。Lonelinessは「醜」だ。 Aloneness is beautiful. Loneliness is ugly. は私のモットーだ。(つづく)
2011年01月15日
(1/12のつづき)このブログが出る頃、私は信貴山の断食道場で2週間ぐらい「行」を続ける。本も日記も書く。英語もセルフ・ディベート(自己究論)――すべて人間力の強化に繋がる。独りは楽しいものだ。1人だけで思考をグルグル回せる独楽(コマ)になれる。究論(ディベートの訳)も、コマの延長である。その心はspiral logicだ。コマの心棒が「空」だ。(つづく)
2011年01月13日
(1/11のつづき)それでもいい、英語は道なのだ。人の道も、コミュニケーションの道も、その他あらゆる諸武芸も道である。道には始めがなく、終りもない。ただ、だまって歩き続けることだ。泣きたくなっても、じっと我慢して歩き続けることだ。涙なんか見せちゃいけない。人がそばにいれば、空に向って泣こう。上を向くと涙を止めることができるからな。 (つづく)
2011年01月12日
(1/9のつづき)道から外れた日本人にならぬよう、しっかり英語道、そして究論道を身につけよう。 道は行である。sweat, blood, tearsは、すべてしょっぱい。一冊の本を読めば、すぐに英語がマスターできるという、甘い言葉に惑わされないように。砂糖には気をつけよう。いくら英語を学んでも、学んでも、道は遠くなるような気がすることがある。I have a long road to travel before I make it in English. (つづく)
2011年01月11日
(1/8のつづき)おかげで私もバイリンガル、バイカルチャルと呼ばれるようになった。その「核」となる道(the Way)や徳が身につけば、二重人格者や多重人格者にならなくても、英語を自然にマスターさせる。 他流派に、バイリンガルになるには、二重人格者になれ、と暴言を吐く、人気タレント教師がいるが、そういう人に、道(ミチ)についてどう思うか、と問えば、きっと嫌な顔をするだろう。道を粗末にする人は、道に迷うか、道で泣く。道徳的羅針盤(モーラル・コンパス)を失えば、英語、そしてディベートも凶器になる。(つづく)
2011年01月09日
(1/6のつづき)3を闘わせると、6角形になる。ヘクサゴナル・ロジックは、サッカー・ディベートの基本である。英会話からディベートへ入り、3角ロジックを研いた。 そして今や闘わなくても勝てる6角ロジックに開眼した。関西サッカー・ディベート協会の幹部たちは、サッカー・ディベートの製本化を急いでいる。(つづく)
2011年01月08日
(1/5のつづき)これも私流の人間管理学だ。都会人間は「知」で勝とうとする。ゲームプレイヤーが多い。しかし地方紘道館は、「情」だ。その人間力も「自然力」に培われたリーダーは強い。 いずれ、鹿児島県や奈良県にも進出したい。「人材」がいればの話だが。(つづく)
2011年01月06日
(1/3のつづき)マタギ狩人は狼の群れのようにチームで動く。沖縄の琉球紘道館のように、三銃士が守ってくれるからたくましい。 組織のパワーも3だ。情理も3だ。水と火と空が揃って、知(石と風)が従う。いくら英語やディベートで目立つ人でも、インテグリティー(六角ロジックのこと)がなければリーダーシップはとれない。人は石垣、人は城。人も組織も崩れる時は、崩れるものだ。敢えて、救わない。(つづく)
2011年01月05日
(1/2のつづき)金子賢男も平川英二もグローバル感覚の持ち主で、かなり腕(口)のたつ英語の使い手だ。だれも、オレがオレがというタイプではなく、チーム・プレイヤーである。 今年の3月に第1回紘道館(佐藤直人塾頭)の会合が能代で開かれる。雪の内陸鉄道に乗れるのかと思うとウキウキする。(つづく)
2011年01月03日
(1/1のつづき)さて、この3点をおさえたマン・オブ・ザ・イヤーは、秋田の佐藤直人君(元ICEEチャンピオン)に決めた。二度目は落ちるのも覚悟とICEEに参加した。 今回も初段。東北一の英語の使い手。秋田のマタギ・ハンターの主将(シカリ)。秋田紘道館のトロイカをしっかり固めている。(つづく)
2011年01月02日
(12/31のつづき)3.徳(空)。磁石のことである。自他を超越した人間的魅力には、自ずから人が集まってくる。火は「みずから」。空は「おのずから」と、格が違う。この空はトランプではジョーカー、サッカー・ディベートではチームリーダーになる。チームの士気(モラール)を盛り上げていくリーダー、目立たなくても、存在感のある人。紘道館の塾頭は、こういう人でないとつとまらない。(つづく)
2011年01月01日
(12/30のつづき)2.勇。水だけでは美しすぎる。火のような意地を示したか。人に負けない技術を持っているか。その技術も単なるコミュニケーションの道具(これなら筆記試験でもある程度測れる)ではなく、武器になっているか。ICEEで恥をかく勇気があったか。お祭りだから、ICEEは別にランクにこだわらない。水に対し、火は、「オレ(私)がやらなくて誰がやる」と先頭を切ってリスクをとるロマンチストである。(つづく)
2010年12月31日
(12/29のつづき)そして男は...その前に私の審査基準を述べてみよう。3点ある。1.仁(人の裏になって「公」を尽くすservant leadershipを発揮したか)が認められたか。仁とは、law of attractionにより、身を低くして人を惹き付ける水のパワーが認められたか。自然に人が集まる、集めることのできるネットワーキング・スキルは、隠徳の別名でもある。(つづく)
2010年12月30日
(12/27のつづき)恒例の行事。年末に、私の世界(サークル)の中で最も活躍の目ざましい女性をウーマン・オブ・ザ・イヤー(男性はマン・オブ・ザ・イヤー)として発表する。いずれも私の独断と偏見によるものだ。 女は服部真子。ICUの猛女(モサ)。2年連続ディベート大会で優勝して、紘道館の門下生となり、ノーネス・チャンネルのディレクターとして、私のレギュラー番組「『TIME』を読む」の担当をしてくれている。超多忙な私の雑務(ワープロそしてパソコン等技術指導)をテキパキとこなしてくれる、スーパーレディーだ。ICEEにも参加するなど、松本道弘のネットワークの座標軸になったと、自他共認められるようになった。まさにrising star。(つづく)
2010年12月29日
(12/26のつづき)それにしても、なぜ中村敦夫は政治に出たのだろうか???真のサムライは、男であれ女であれ、政治には出ない。出ても勝てないことを知っているからだ。 なぜか。シャーロック・ホームズの演繹法で答えてみよう。政治は妥協のart、そして、game(カケヒキ)だ。しかし、サムライはゲームができない――play for real(真剣勝負)。石のロジックでいえば、矛盾する。したがって、出馬しない。出馬できない。このことは『1時間でわかるディベート入門』で、ディベート形式で触れておいた。(つづく)
2010年12月27日
(12/24のつづき)どうも私は女の扱い方は下手とみえる。最近、浅草で「フーテンの寅さん」など、古い映画をよく観る。やはり、私は裏街道の人間か。 「帰ってきた木枯し紋次郎」もよかった。絵日記に、イメージを膨らませて載せた。いずれブログに...。(つづく)
2010年12月26日
(12/22のつづき)今、尖閣諸島問題で、民主党はミソをつけた。男どもはだらしない。岩下志麻のような姉御肌の女が出てこないか。 ふと櫻井よしこを思い出す。昨年だったか、外人記者クラブで出くわした。「あなたは岩下志麻のような雰囲気がある。刺青をしたら似合いそうだ。首相に立候補するんなら応援するよ...」。例のごとく、すずやかな、いやシレーッと流されたあの笑顔。(つづく)
2010年12月24日
(12/21のつづき)ディレクターの服部でもハラハラするという。カネのある民放や民放化しつつあるNHKに対しても一歩も引かない。高級者向けのクオリティー番組を続けたい。こだわる(Why should I compromise?)番組だ。(つづく)
2010年12月22日
(12/20のつづき)私はこういう自己犠牲精神に富んだ強い女が好きだ。強い女は気配りができる。相手が悪いとは言わない。相手に悪いと自分に厳しい。このやさしさ(惻隠の情といおうか)がサムライの定義とするなら、彼女こそウーマン・オブ・ザ・イヤーだ。 私はいつも独行道。後悔はしない。しかし、このノーネス・チャンネルは、ノーカットで、問題発言(politically correct)も許してくれるので、マイペースで松本節をぶつことができる。(つづく)
2010年12月21日