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自ら同性愛者と名乗り出た候補者が当選して、ラジオでインタビューに答えていたそうな。
しかし、同性愛って多数少数の二者択一の篩に掛けられるものなのか? 殊更、主張したところでなんになるのだろうかとさえ思える。 そういう主張が却ってマスコミの好奇の目によって晒されるだけである。 特に事の重大さに気付かずに何も考えてない馬鹿な製作会社はやり兼ねない。 差別意識が丸出しだからである。 てか、既にそれをしていたが。 しかし、少数ってなんだろうか。 多数って何? 人類は60億人をゆうに超えてしまっている。 個人はただ一人である。 60億対1じゃないか。 人は何処までも個人だと言うことを教えてくれたことこそが近代だったのではないのか? それはともかくとして、同性愛を(法的に)認めるとかそんなことになるのだろうけど、そこまでする必要あるのかと思う。 個人(間)の承認こそが大切な筈だが、大いなる力(法的拘束力)で強制を伴わせるのは如何なものか? 断っておくが反対しているわけではない。 言えることは、我が国は超高度福祉社会だということである。 カテゴライズが即票に繋がることは与野党共に理解している。 このような囲い込みの結果、福祉に享受するものが増えてしまったからである。 実は今回の投票率の低さとは、投票する者がマイノリティ他ならないからである。 詰まり、マイノリティがマジョリティを搾取している構図である。 地方格差という言葉がある。 これは税金に掛る収支だけではない。前から言われていることだが、一票の格差のことである。 どういうことかと言えば、最大格差は5倍である。これは前にも言ったので割愛する。 こうした事から、地方出身政治家による寡占政治の所為で無気力になっているのかも知れない。 逆のことを言えば、投票に行かない人達は多数なのである。寡占政治に無言で抗う人達である。 実は少数派が戦うべき相手こそこうした多数派なのである。 選挙に行こうとケツ叩く相手がマイノリティの敵なのである。 マスという言葉がある。 マスコミのマスである。 惰性に流れる俗物の塊のことである。 砂利をセメントに混ぜて作らせるコンクリと同じである。 コンクリは直ぐに熱が出て固まるが、水が染み込んで来ると劣化して皹が入って崩れていく。それこそがマスそのものである。 はっきり言えば外山恒一以外は皆与党であり多数である。 但し1万票も入っているが、それに入れた者も結局は「個人」である。 考えを受け入れられないのならば、そいつは個人(寧ろ孤人)なのである。 真の個性とは精神病棟にある、と養老孟司は言ったが、会話がまともに出来ないが各々の考え方がそこにあるからである。 うすた京介の漫画に強烈な個性の持ち主が登場するが、この漫画が人気を得たり、焼き増し漫画(ラノベにも)が後に続くのも、そうした酔狂に憧れる没個性者が多いからだろう。 これも戦後教育のお陰なのだ。 個性を伸ばす教育を目指したのだから、子供はそれに常に脅かされるに決まっている。 同性愛は体の問題(心ではない、心だと考え方という安易な妥協に陥りやすくなる)が先ずだが、それに連られて心が作用してゆく。 こうした作用は決して「少数」じゃないのである。他にパターンがあるからだ。共有するものがいればこそ「多数」に転じる。 しかし、言葉自体は一見共通しているように見えるから、ややこしくなる。 心身共に受け入れられないとなると、完全にマイノリティからさえも外された「個人」となる。 そんな人間何処にいる? そんなのはもはや人ではないのではないか? いわゆる「殺人鬼」こそがコミュニケーションを絶ってしまった「個人」ではなかろうか。 そういうのは外道だが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.08.02 03:16:46
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